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[神保町の匠]2019年の本 ベスト3(3)

『異界探訪記 恐い旅』『急に具合が悪くなる』『日本経済30年史』……

神保町の匠

井上威朗(編集者)
松原タニシ『異界探訪記 恐い旅』(二見書房)
 「事故物件住みます芸人」の濃厚な心霊スポット訪問記録。動画の生配信というツールを使って恐怖を可視化し続けるのがこの著者の「芸」だと思っていますが、文字の形に落とし込んでも立派に成立しています。

 本書の後半ではガチの恐怖体験も描かれていますが、それすら実話と思わせる見事な「可視化芸」、たっぷり堪能させていただきました。

松原タニシ松原タニシ

渡辺佑基『進化の法則は北極のサメが知っていた』(河出新書)
 ベスト科学啓蒙書として推薦します。動物に調査機器をくっつけていろいろと測定する「バイオロギング」という研究の報告ですが、よくぞここまで大変なことが起こり続けるものだ……と少し引いてしまうほどネタ盛りだくさんな冒険記でもあります。
 その結果として提示される「体温」を基軸とした進化仮説も、私にとっては腑に落ちるものでした。読めば「生命」への新しい視界を手に入れられると思います。

湯水快『王国へ続く道』(ホビージャパン)
 2019年における読書界最大の快事は、5年以上にわたって書き継がれたこの超大傑作の完結である、と断言します(ただし、こちらで紹介する書籍版はまだ物語の途中です)。
 小説投稿サイト「小説家になろう」のアダルト版「ノクターンノベルズ」で配信された本作、合計の文字数はなんと565万字。われながらよく読んだものです。
 エロと暴力が過剰積載の英雄一代記、という体の物語ですが、ただひたすら文字をむさぼり続けることができた体験は最高のものでした。たまたま優れた書き手を推薦できる場を与えられた身として、本作の完結を祝福できた幸運に感謝します。
 (などと悠長に語ってたらコミカライズが始まってしまった……。オレが編集したかったなあチクショー!!)

小木田順子(幻冬舎編集者)
 いずれも誰もが認める「良書」で、書名を挙げただけでミッション・コンプリート……なので、「今年この本を読んだことが自分にとってはどうだったのか」という極私的なことだけ、書き添えさせていただきます。

大木毅『独ソ戦――絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)
 タイトルを見たときに、何のことか分からなかったというほど世界史に疎いので、本書の真価は当然読み取れていない。が、戦史・軍事史というものを読んだことがない私でも、最後まで読み通すことができたのは著者の筆力の賜物。戦争というと、「日本とどこかの国の戦争」としか頭に浮かばなかった私の蒙を啓いてくれた一冊。

宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社)
 今年は、がん治療についての正しい知識を普及させることに熱心な医師たちとの仕事が多かった。検診、治療から再発、終末期ケアまで、「エビデンス」のある解説を一通り学んで、もう自分としては、がんについて特に考えるべきことはないな……などと思っていた足場は、本書を読んで見事に崩壊。命が尽きる最後の瞬間まで、「定型」「通俗」「自明性」を突き崩すことをやめなかった哲学者から出された宿題に、ずっと悶々としている。

カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版)

カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版)カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版)
 相対性理論や量子力学など現代物理学の理論を巧みな比喩と溢れる詩情でひもといた科学エッセイ。時間は計測できるものではない、過去から未来に過ぎていくものではない――本を読み終えたときに湧きあがったのは「よくわからないけど、スゴい!」という快感。いまは、「この原稿も締切を過ぎた! 年内の仕事が全く納まらない!」と焦りながら本書を見返し、「そうだ、時間は存在しなかったんだ、すべて幻想だ」と遠い目……。

駒井 稔(編集者)
ヤニス・バルファキス『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(関美和訳、ダイヤモンド社)
 著者は、あのギリシャの経済危機の時に財務大臣を務め、EUからの財政緊縮策に敢然と異を唱えた気骨ある学者。訳者あとがきによると、スキンヘッドで革ジャンを着てバイクを乗り回す学者らしからぬ個性派だそうです。本書は、そんな著者がオーストラリアに住む10代の娘に向けて書いたという体裁をとっています。ですから語り口は非常に平易ですが、私たちを支配する資本主義についての非常に深い分析と根源的な批判が展開されています。なぜ、格差が生じるのか。市場、利子、労働力、そして仮想通貨についても、高度な知識を駆使して現在の資本主義を解析していきます。マルクスの多大な影響も感じられますが、一読して終わりではなく、真の理解に達するには何度も読み直す必要のある本格的な経済書だといえるでしょう。

ヤニス・バルファキス ヤニス・バルファキス

山家悠紀夫『日本経済30年史――バブルからアベノミクスまで』(岩波新書)
 バブルが弾けてからはや30年。それは平成と呼ばれた時代にほぼ重なります。失われた30年ともいわれるこの時代をどう捉えるべきか。著者は、「構造改革なくして日本の再生と発展はない」という強烈なスローガンをもって小泉内閣で断行された政策や、アベノミクスと言う仰々しい呼び名で始まった大規模な金融緩和をはじめとする諸政策について非常に優れた分析を施します。そして新自由主義に基づく構造改革という魔法が、日本の不況を救うという考え方が、これほど長期の試みを経ても、一向に事態を改善させない理由を明らかにしていきます。スターリニズムは20世紀の知の宗教でしたが、21世紀のそれは「新自由主義」ではないでしょうか。どちらも熱烈な信奉者をもち、そして歴史的には克服される存在として。

ウルリヒ・メーラート『東ドイツ史1945-1990』(伊豆田俊輔訳、白水社)
 まず、このような書物を刊行した訳者と出版社に対して敬意を表したいと思います。一般向けに書かれた通史とはいえ、最初から多くの読者を望むことはできない本だからです。本書は文字通り、東ドイツの成立から崩壊までを克明に綴った歴史書です。正直、専門外の人間には読了するのが楽な本ではありません。しかしそれでも読み通してしまうのは、ドイツ社会主義統一党の事実上の一党独裁の誕生から終焉までを、スターリニズムの奇怪さを十分に伝えながら、冷静かつ緻密に描き切った筆致の見事さではないでしょうか。しかしこれは終わってしまった物語ではありません。前掲の2書にも通じますが、現在を生きる私たちには、人間の救いがたい愚かさとそれでも真理が勝利するという認識に癒される思いがするのです。