誰かの身代わりとしての私
2020年01月09日
この映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、2016年11月に公開された『この世界の片隅に』をベースに約40分、250余のカットを増補した姉妹作です。片渕須直(かたぶちすなお)監督は、「映画的実験であり、まぎれもなく完全新作」と劇場公開を間近にした宣伝会議でこう述べたそうです。
“増補”されたのは、前作で少しだけ触れられた白木リンの物語です。朝日町遊郭の「二葉館」の遊女であるリンは、主人公北條すずの夫、周作とかつて店で知り合い、心を許す関係にありました。リンはその秘密をすずに隠したまま、二人は友情で結ばれていきます。
こうの史代の原作を知る観客は、前作でリンの話が割愛されていることに気付いていましたが、不満を持つことはなかったと思います。すずが、リンの身元証は周作の手になるものであると気づく場面は、私自身も過不足ない省略法と感じていました。
ですから本作パンフレットの冒頭に、片渕監督の「映画的実験であり、まぎれもなく完全新作」という上記の文言を認めたとき、少々鼻白んだのは事実です。前作を夢中になって繰り返し見た者にとって、監督の言葉は軽い宣伝臭を感じさせるものだったからです。
それでも見慣れた前半のシーンを巡り、すずがすいかやハッカ糖の絵を持ってリンを再訪する追加シーンに辿りついて、ようやく「新作」の意図がこちらにも伝わってきました。前作では半分方、すずの嫉妬の対象と捉えられていたリンが、本作ではすずの深い理解者、支援者として立ち現れてくるからです。前作ではさほど強調されなかった二人の女性の友情が前景にはっきり押し出されています。
しかもそのリンは独特な観察眼で、戦時下の国家主義的な女性観や家族観を批評し、同時に居場所を失う不安に苛まれるすずを激励します。「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」というフレーズは前作よりずっと明瞭な輪郭を持って届いてきました。
白木リンの物語が十全に描き出されたことで、原作に潜んでいたもうひとつのテーマが浮かび上がってきたことを述べておきましょう。
言うまでもなく、前景にあって見えやすいテーマは、すずの成長譚です。記憶にさえなかった周作の申し込みに促されて呉へ嫁し、口うるさい小姑の攻撃をかわしながら、戦争の不自由と理不尽、愚劣と悲惨を潜り抜けていくヒロインは、いくつもの死に直面し、否応なく自立する力を身に付けていきます。それは、「世界の片隅」に暮らし、しかもその世界と真っ向から向き合うことを辞さないひとりの女性への成長プロセスでした。
ところが今回の作品で、改めて気づかされたのは、「成長」のモチーフに寄り添うように配置された「代わり」または「身代わり」のエピソード群です。本作の2時間48分は前作の2時間9分を含んでおり、多くのシーンは初見ではありません。にもかかわらず、「代わり」や「身代わり」は随所に反復され、否応なくこちらの目に飛び込んできました。
中心の位置にあるのは、すずの固く縮こまった疑心です。代用食をせっせとこしらえていたすずは、自分もまた一個の「代用品」に過ぎないのではないかという皮肉なレトリックにたどりつく。
事実、周作とリンののっぴきならない関係は親族の知るところとなり、強い反対によって断念させられたことが小林の伯母の発言からうかがえます。しかもすずから見れば、リンは容貌でも知力でもかなり優位の存在。せっかく知り合った同年代の友人が、周作の「元カノ」とはなんという運命の悪戯だろう……。
いったんこの「身代わり」の視点に立つと、さまざまな「代用」「代行」「代役」が見えてきます。
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