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野村義男、たのきんトリオのジャニーズ史的意義

太田省一 社会学者

 前回は、たのきんトリオのうち田原俊彦と近藤真彦についてみた。今回は、残るひとりである野村義男について述べる。そして最後に、たのきんトリオとはなんだったのかについて少し考えてみたい。

バンドデビューを選んだ野村義男

 ヨッちゃんこと野村義男は近藤真彦と同じ1964年生まれで、東京都出身。以前テレビ番組で本人が語っていたが、12歳のときに代々木公園でゴーカートに乗って遊んでいたところ、川崎麻世らを連れたジャニー喜多川と偶然に出会い、スカウトされた。その後Jr.としての活動を経て1979年に『3年B組金八先生』(TBSテレビ系、以下『金八先生』と表記)に出演することになる。

 そこで彼が演じたのは、3年B組の生徒・梶浦裕二。銭湯の息子という設定だった。第3話はこの裕二がメインの回である。裕二は、実家の銭湯に通ってくる女子高生を好きになってしまい、その姿を朝ひと目見ようとして毎日遅刻してしまう。それを知った金八は、万葉集を引きながら「愛」についての授業をおこなう。

 この話からもわかるように、裕二はいかにも中学生らしい純朴な面を持つ生徒として描かれている。下町にある銭湯の息子というところでは、庶民性が強調されていた。ちょっとたれ目のルックスが魅力の野村義男が醸し出す柔和な雰囲気は、そのようなイメージともぴったりだった。

 たのきんトリオの一角であった彼に、周囲は当然早く歌手デビューすることを期待した。だが結局、近藤真彦の歌手デビューから2年以上の間が空くことになった。

THE GOOD-BYEである。デビューロックバンド「THE GOOD-BYE」でデビューしたころの野村義男=1983年、OP写真通信社
 野村義男は音楽に興味がなかったわけではない。むしろ逆である。小学生からギターを弾いていた彼は、中学生になると「ロック御三家」のひとりCharの音楽にふれ、エレキギターの魅力にとりつかれる。そんなギターとの付き合いは、たのきんトリオになってもずっと続いていた。いつもギターを手元から離さずにいる彼の姿を覚えているひともいるだろう。

 したがって、ソロでアルバムを1枚出した後、野村義男がロックバンドとしてデビューすることを選んだのはある意味必然であった。

 そのロックバンドが、野村、曽我泰久、加賀八郎、衛藤浩一の4人からなるTHE GOOD-BYEである。デビュー曲「気まぐれONE WAY BOY」(1983年発売)は、オリコン週間チャートで9位を記録。さらにこの曲で1983年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞し、これによってたのきんトリオは全員同賞に輝くことになった。

 その後もTHE GOOD-BYEは野村義男と曽我泰久のツインボーカルを中心に、自作曲「You惑-May惑」(1984年発売)をヒットさせるなど順調に活動を続けた。バンドとしても熟成され、その音楽的クオリティも上がっていった。

野村義男(右)と曽我泰久 2004年「THE GOOD-BYE」で活動を続けた野村義男(右)と曽我泰久=2004年

 だがレコード売り上げなど数字面になると、田原俊彦や近藤真彦と肩を並べるまでには至らなかった。『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系)の急上昇曲を紹介する「スポットライト」のコーナーに「気まぐれONE WAY BOY」でTHE GOOD-BYEが出演した際、その日出演していた近藤真彦が「最初で最後の出演」と茶化したら、結局その通りになってしまったというエピソードは有名だろう。

野村義男がジャニーズにもたらしたもの

 しかし、一世を風靡したたのきんトリオのひとりである野村義男がロックバンドという道を選んだことは、ジャニーズにとって後々大きな意味があった。

 1970年代後半にレイジーや「ロック御三家」などロックアイドルのブームがあったことは、この連載のなかでふれた。THE GOOD-BYEも一見それに近い。しかし、ミュージシャンがアイドルになったのではなく、アイドルがミュージシャンになったという点ではベクトルが逆である。

 そもそもジャニーズの歴史において、バンドでデビューするケースがそれまでなかったわけではない。ただ他のジャニーズ所属タレントのバックバンドを兼ねるようなケースも多く、ジャニーズのなかでバンドというスタイルはかろうじて命脈を保っていたと言える(矢﨑葉子『ジャニーズ輪廻論』太田出版、89頁)。

 その意味で、THE GOOD-BYEのデビュー、そして活躍は画期的なことだった。それをきっかけに、ジャニーズ伝統の歌って踊るグループとは異なるバンド形態のグループが人気を得る土台ができたからである。

 1985年には、ジャニーズJr.のメンバーによってバンド形態のグループ・男闘呼組が結成された。その後メンバーの入れ替わりもあったものの、最終的に成田昭次、高橋一也(現・高橋和也)、岡本健一、前田耕陽の4人に落ち着く。

元「男闘呼組」の高橋和也2012年元「男闘呼組」の高橋和也=2012年
 彼らはドラマやバラエティに出演して知名度を上げた後、1988年に「DAYBREAK」でレコードデビュー。これがいきなりオリコン週間チャート1位を獲得するなど大ヒット、レコード大賞最優秀新人賞を受賞し、『NHK紅白歌合戦』初出場も果たした。その後も「TIME ZONE」(1989年発売)などデビューから連続4曲がオリコン週間チャートで1位となる快挙を達成する。

 当時、男闘呼組は光GENJI、少年忍者(後の忍者)とともに「少年御三家」と呼ばれ、

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