【11】小唄勝太郎・三島一声「東京音頭」
2020年01月30日
「はやり歌」とは世につれる〝社会的生き物〟である。したがって、そこには長短の差はあっても、おのずから寿命がある。世のうつろいと共にいつしか廃れて、死んでゆく。そして、一度死んだら生き返ることはめったにない。
たまに「リバイバル」の僥倖にめぐまれても、甦ってから生き永らえる時間は、当然のことながら、以前よりは短い。ところが、それが「はやり歌」の宿命なのに、これまでに3度も死にかけて(いや、より正確にいえば「殺され」かけても)、そのたびにどっこい甦っていまも生き続けている唄がある。
それが「東京音頭」だと言っても、おそらくほとんどの読者には信じてもらえないだろう。かくいう筆者も、今回調べてみるまでは、そんな数奇な運命もつ〝したたなか唄〟だったとは、思ってもみなかった。
戦後の東京生まれで東京育ちの私にとって、「東京音頭」は、お盆になると「炭坑節」と共に流れてくる〝時季もの〟の一曲でしかなかった。しかも、ある「事件」があって以来、私の中では〝軟派で軽佻な唄〟となっていた。小学生時代に、
♪踊り踊るならチョイト東京音頭・・・
の歌詞の最後に、次の囃子詞を大人たちの前で得意げに披露したところ、こっぴどく叱られたからである。
〽おっとちゃんもおっかちゃんも元気だして、元気だして
ワルガキ仲間の誰からか教わったものだが、もちろんそのとき、私はそれが夫婦間の「閨事」を茶化したものだとも知らず、なぜ叱られたのかもわからなかった。
だから、そんな軟派で軽佻なイメージしかない「東京音頭」が3回も「殺されかけた」ほどの〝こわもての強者〟だったとは想像の外だった。では、いったい「東京音頭」は3度もどんな〝死の危難〟に遭ったというのか、それを順次、検証していこう。
唄:「東京音頭」(小唄勝太郎・三島一声)
時:昭和8年(1933)
場所:東京
最初に殺されかけたのは、先の太平洋戦争へと国と国民が前のめりになる渦中でのことだ。「この非常時に軟弱な踊りにうつつをぬかすとはもってのほか」と、「東京音頭撲滅同盟」なる組織まで
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