メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

『リチャード・ジュエル』と『テッド・バンディ』の奇妙な対称性

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 2019年に撮られた『リチャード・ジュエル』『テッド・バンディ』は、奇しくもコインの裏表をなすような、刮目(かつもく)すべき映画だ(以下、『ジュエル』、『バンディ』と略記)。監督は、前者がクリント・イーストウッド、後者がジョー・バリンジャー。どちらも実在の人物を役者が演じる劇映画、つまり実話ベースの伝記映画であるが、まずは両作の主人公の性格、外見をめぐる奇妙な対称性に、ざっと触れておこう(<対称>とは、2つのものが互いに対応していること)。

 すなわち、リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー、好演)は丸々と太ったお人好しの、副保安官の経験もある警備員で、あまりにナイーブ(素朴)に<法>を内面化しており、ゆえに正義感が強く、警官やFBI捜査官といった法の執行者になることに――つまり公権力の番人になることに――憧れていた。だが皮肉なことに、ジュエルはある日、FBIとメディアによって不当にも爆弾犯の容疑をかけられ、起訴されぬままFBIの執拗な捜査の対象になってしまう。

『リチャード・ジュエル』=公式サイトより『リチャード・ジュエル』=公式サイトより

 いっぽうテッド・バンディ(ザック・エフロン、好演)は、30人以上の女性を殺害した凶悪な連続殺人犯であり、ネクロフィリア(死体性愛者、屍姦症)でありながら、IQ160ともいわれる卓越した知能、ハンサムな容貌、柔らかい物腰、弁舌の巧みさによって、長年にわたり捜査の目を逃れ、メディアを巧妙に利用し、また多くの女性を魅了した男だが、逮捕、脱獄を繰り返した末、ようやく裁判で有罪判決を受け死刑に処せられる。

――このように、ジュエルは頭脳明晰とはいえない、太った善良な無実の男であり、いわゆる「インセル(非モテ)」(後述)の下層白人であり、バンディはハンサムで狡猾残忍な連続殺人鬼であるという点で、二人の男はシンメトリー(左右相称)をなすように対照的だ。

 本稿ではこうした点を中心に、3回にわたって両作の物語、作劇、主題を具体的に見ていこう(それによって、両作の主人公であるジュエルとバンディの類似点と相違点、および、両作を観るさいの観客の感情移入のあり方の共通点と相違点などにも、アプローチしたい)。

ずさんな捜査の犠牲者であり、“報道被害者”

 『ジュエル』は、物語の運びの巧みさにおいても、描写の冴えにおいても、ここ数年のイーストウッド作品では突出した傑作であるが、1962年生まれのリチャード・ジュエル/ポール・ウォルター・ハウザーは、先述のように、善良で生真面目な肥満体の警備員だ。

 1996年7月のある日、彼は、アトランタ五輪の会場近くの公園で爆発物を発見する。ジュエルが避難誘導している間に爆弾は爆発し、2名の死者を出すが、彼の迅速な指示によって多くの人命が救われ、メディアはこぞって彼を英雄として讃える。

 だが、異常犯罪の犯人像の分析技法であるプロファイリングにとらわれたFBI は、不当にも、第一通報者のジュエルを爆弾事件の容疑者――自作自演の爆弾犯――であると特定し、強引な捜査を開始する。そして、FBI捜査官トム・ショウ(ジョン・ハム、好演)から情報を得た地元紙のキャシー・スクラッグス記者(オリビア・ワイルド)らは、功名心にかられて、ジュエルを容疑者扱いする記事をセンセーショナルに書きたてた。

『リチャード・ジュエル』=2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC『リチャード・ジュエル』 © 2019 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

 こうして、FBI/国家の暴走と、手のひらを返したようなメディアの偏向報道により、

・・・ログインして読む
(残り:約2947文字/本文:約4502文字)