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よど号ハイジャック事件――半島へ飛べ! 根拠地へ向かう旅

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

 その日、9人の男たちは4日前の失敗を繰り返さぬよう、早めの時間に羽田空港へ集合した。当初の決行予定日だった1970年3月27日は、何人かが集合時間に遅れて搭乗に間に合わなかったからだ。3月31日は、品川付近に分かれて前泊し、万全を期したのである。

 彼らは模造の日本刀や短刀を身に帯び、福岡・板付空港行きの日本航空351便に乗り込んだ。離陸からしばらく経った7時33分、富士山の上空で男たちは武器を振りかざし、ほぼ満席の122人の乗客に自分たちがハイジャックを実行したことを告げた。

 続いて彼らは操縦室へ押し入り、機長に向かって平壌へ向かうよう命令した。彼らは共産主義者同盟赤軍派と名乗った。当時、日航のボーイング727には、日本の河川にちなんだ愛称がつけられており、351便の機体には淀川を意味する「YODO」と書かれていた。

よど号ハイジャック事件で、同機から解放される女性、子ども、老人たち。タラップ最上段に日本刀をもった乗っ取り犯がいる331板付よど号ハイジャック事件で、福岡・板付空港でまず女性、子ども、老人たちが解放された。タラップ最上段に日本刀を持った実行犯がいる=1970年3月31日

 一行の旅立ちは実に華々しいものだった。抜き身を振りかざす日本初のハイジャックはテレビの視聴者を釘付けにし、開会したばかりの大阪万博の影を一時薄くしてしまった。赤軍派は板付空港での足止め策を振り切り、韓国・金浦空港の偽装を見破り、乗客の代わりに山村新治郎運輸政務次官を乗せて念願の平壌へ向けて飛び立った。彼らの行動はどこか愉快犯的色合いを帯び、視聴者は密かに喝采を送った。結果的にテレビ番組は、すっかりジャックされていた。

 おまけに発表された「出発宣言」の末尾は、「我々は“明日のジョー(「あしたのジョー」)”である」と締めくくられていた。少年漫画と革命運動が架空の少年ボクサーを象徴としてつながり、ウキウキした気分さえ醸し出していた。それはこれから始まる旅への期待感だったのである。

北朝鮮に乗り入れた同機から押収された凶器など。日本刀、ピストル、斧、ロープなどがある=朝鮮中央通信が朝鮮通信社を通じて発表、1970年4月北朝鮮に乗り入れたよど号から押収された凶器。日本刀、ピストル、斧、ロープなどがある=1970年4月、朝鮮中央通信が朝鮮通信社を通じて発表

 「出発宣言」を書いたのは、ハイジャックチームのリーダー、田宮高麿である。

 田宮は大阪府立四條畷高校から大阪市立大学へ進んでいる。1943年生まれだから、60年安保闘争を17歳で体験した世代である。

 いわゆる安保ブントは60年7月に分裂したが、関西地方委員会はその騒ぎに巻き込まれなかった。田宮は大学進学後、(おそらくごく自然に)「関西ブント」の活動家になった。後に赤軍派議長に就く塩見孝也は、大阪市大時代の田宮の印象を「威勢のいいアジテーションをするきっぷのいい男」と書いている(塩見『赤軍派始末記――元議長が語る40年』、2003)。1962年の大学管理法闘争の頃である。

国際根拠地を探せ

 なぜ赤軍派は、ハイジャックをしたのか? なぜ北朝鮮行きを考えだしたのか?

 よど号ハイジャックへ導いたのは「国際根拠地」の建設という方針だったが、その背景にあったのは前年1969年11月の大菩薩峠での大量逮捕だった。軍事訓練を目的に山小屋「福ちゃん荘」に宿泊した53名が11月5日未明、警視庁と山梨県警合同の機動隊に踏み込まれ、そのまま検挙された。逮捕者の中には、政治局の上野勝輝や八木健彦も含まれていた。

 この「敗北」(というより失敗)を通して、国内で武装闘争(「前段階武装蜂起」)を準備することの困難が明白になった。さほど広くない国土で、しかも津々浦々まで警察の情報網が張りめぐらされた日本で、武器の調達や訓練を含む非合法活動を継続的に行うのは無理がある。さらにいえば、赤軍派は孤立していた。シンパサイザーは存在していたが、彼らを守り隠す「人民の海」の規模にはとうてい達していなかった。

 つまり、「国際根拠地」は「前段階武装蜂起」を遂行するための兵站基地として、軍事訓練場として、さらには彼らを暖かく同志として迎え入れてくれる一個の政治体制(「労働者国家」)への依拠として想定されたのである。

 その想いはまったくの絵空事でもなかった。

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