鍵となる「#MeToo」運動・「フラワーデモ」
2020年02月12日
福岡地裁で無罪判決が出された「準強かん」(刑法上は「準強制性交等」)事犯について、福岡高裁は、2月5日、被告人に有罪(実刑4年)を言い渡した。
2019年3月、準強かん事犯において異常な無罪判決が相次いだだけに、今回の判決は大きな意義を有すると、私は判断する。裁判官が、「明確な意思を示せないような状況で、性行為に同意する女性は通常いない」と指摘し、また量刑について「犯行は卑劣で悪質。〔被告人は〕不合理な弁解に終始し、被害者の名誉をさらに傷つけており、刑事責任は重い」と述べた(読売新聞2020年2月6日付)事実は、今後、一定の影響を与えるだろう。
だが日本の司法が、被害者救済・人権回復を第一とする方向へと向かうかどうかは、予断を許さない。その背景となった事情に、本質的な変わりはないからである。つまり、
(1) 強かんや女性に関する神話が、根強く残っている。
(2)「故意」概念を狭く解する裁判所の実態も、変わっていない。
(3) 裁判官が、世論の動向を機敏に意識するという方向も見えない。
以下、(1)~(3)について論ずる。
そして最後に、今回の事犯の、今後のゆくえに関連して、最高裁の判例・動向と世論の重要さにふれたい。
2019年3月に続けて出された準強かん事件の無罪判決には、19歳の娘に対する性虐待(名古屋地裁・岡崎支部判決)も含まれるが、その判決と今回の事犯の無罪判決(福岡地裁・久留米支部判決)の下には、女性を「ニンフォマニア」(色情狂)と見る女性観が、ひそんでいる。つまり、女性は「誰とでもセックスしたがるし、相手が誰であれ男性の働きかけに応じる」、という女性観である(杉田「「準強かん」事件、福岡地裁・無罪判決の非常識――男性社会に流布した女性観の妄信」「性犯罪の被告人に、相手の「同意」を証明させよ」)。
また女性は、望まなければ、過度に酔っていようが相手が実父であろうが、男性の働きかけを拒むことができる、という強かん神話も同時にひそんでいたと判断できる。
いずれも一般社会(特に男性)に浸潤しているが、これが裁判官の意識をも縛っていたと前提しなければ、ほとんど無謀とも言うべき以上の無罪判決を導いた論理は、理解できない。被告人は自らの犯罪を合理化するためにこの種の神話を用いたのであろうが、裁判官が同種の神話を共有していなければ、被告人の合理化を追認するとは思われないからである。
今回の高裁判決は画期的である。だがそれ以前に、地裁レベルで無罪判決が出されていた事実を重く見なければならない。一般に地裁・高裁では、判決は3人の裁判官の合議により下されるが、福岡地裁判決では、3人中少なくとも2人の裁判官がこの種の神話を信じていた、もしくはそれを受け入れた、と判断される。
本来それは異常な神話であると言うべきだが、まずいことに、裁判官はこれを、「経験則」の名の下に合理化する術をもっている。強かんや女性に関するそのような理解は、個人的できわめて限定的な経験に基づくものだったとしても、「自由心証主義」の建前から、常にそれを「則」(法則)と一方的に宣言することができるのである(杉田「「準強かん」事件、福岡地裁・無罪判決の非常識――男性社会に流布した女性観の妄信」、杉田編『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』青弓社、123頁以下)。
それが裁判制度の現状であるとき、関連する知見を専門家から聴取する義務を裁判官に課すことなしには、異常な神話を事実視する少なくない裁判官の迷妄を、変えることはできない。
しかも、形法の基本原則は維持されており、したがって犯罪認定・科罰の基準は容易に変わりようがない。
刑法には、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」という規定がある(第38条第1項)。だから、準強かん事犯では、被害者が「心神喪失」あるいは「抗拒不能」の状態だったという事実認定と同時に、被告人がそれを認識した上で強かんしたという「故意」の認定が、求められる。
だが、故意認定の基準は、司法の現場において高くも低くもなる。今日の司法では、故意は過度に厳密に解され、これが悪質な準強かん事犯をも無罪へと導く大きな要因となっている。つまり日本の裁判所は、故意の有・無を二者択一的に問い、その中間に位置する曖昧領域(いわゆるグレーゾーン)を「未必の故意」として認定する方向には向かっていないのが、現実である。
準強かん罪の認定において、この点が高いハードルになっている。だが
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