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『リチャード・ジュエル』と『テッド・バンディ』、主人公の人物像に迫る

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は前回に引きつづき、映画『リチャード・ジュエル』『テッド・バンディ』(以下、『ジュエル』と『バンディ』と略)における、主人公の人物像を比較していきたい。まずは、両作における<証拠>と<冤罪>というモチーフをみてみよう。

 『バンディ』では、数々の有力な証拠や証言が相次いだ結果、連続殺人鬼テッド・バンディは有罪判決を受け、死刑に処せられた。そのさい決定的な証拠となったのが、FBIの科学捜査研究所が、彼の愛車フォルクスワーゲンの中から被害者の一人の毛髪と「ほぼ同じ」毛髪を発見したこと、また、被害者の一人の臀部に付けられた噛み跡の歯形が、バンディのそれと一致したことであった。しかしながら、犯罪心理学者で法政大学教授の越智啓太によれば、現在の裁判でこれらの証拠は死刑の裏付けになるほど強力かといえば、そうではないという(パンフレット)。

『テッド・バンディ』 全国ロードショー中  配給:ファントム・フィルム  ©2018 Wicked Nevada,LLC『テッド・バンディ』 全国ロードショー中  配給:ファントム・フィルム  ©2018 Wicked Nevada,LLC

 つまりこれは、バンディに有罪判決を下す決め手となった証拠資料が、物的証拠ではなく、状況証拠/間接証拠であった可能性はゼロではない、ということだ(これはバンディが、被害者の遺体をきわめて巧妙に処理した、ということでもある)。

 まあ、ここでは物的証拠と状況証拠の境界の曖昧さ、という難問についてはこれ以上踏み込まないとして、FBIの誤った捜査により、無実のリチャード・ジュエルが“冤罪”をこうむったのに対し、テッド・バンディは、自らの犯した凶悪犯罪を隠蔽すべく冤罪を主張したのだ(なお、バンディは死刑が目前に迫った時、執行を先延ばしさせるためか、自らの犯した殺人を部分的に自白する、という“奥の手”を使うが、そこまでして生き延びようとした彼のメンタルの強さは、まったくもって驚きだ)。

 ともあれ、ジュエルの場合はあくまで冤罪がリアルなものであったのに対し、バンディの場合はそれがアンリアルな(事実に反する)創作であったわけだ。この点でも両者は好対照をなしている。ちなみに、ジュエルは映画の終盤で、捜査官に物的証拠がない、と主張して「無実」を勝ち取る。

リチャード・ジュエルさん 1997年10月東京都千代田区神田駿河台の明治大来日し、捜査当局の手法やメディアのあり方について講演したリチャード・ジュエルさん=1997年10月、明治大学で

“冤罪犠牲者”と殺人鬼がもつ、<法>への執着

 もうひとつ、ジュエルとバンディの微妙な類似点は、<法>や<規範>への執着である。前述のようにジュエルは、<法>をじつに無防備、かつナイーブ(素朴)に内面化しており、幼い頃から警官や捜査官といった、公権力の番人に憧れ、「法執行官」を自認していた射撃好きのガン・マニア(銃の収集家)だった。事実、そうした<法>への極端な執着ゆえに、彼は地元のピードモンド大学の警備員時代、高速道路でトラックの荷物検査を強行するという“過剰警備”のために、大学当局によって解雇されている。

 芝山幹郎は、そうした、善良で素朴なジュエルが抱え込んでいる心の屈折について、的確に分析している。要約すれば――リチャード・ジュエルのメンタリティにはいかがわしい部分があり、彼は「セキュリティ・マニア」という一種の問題児で、公権力が支給する制服に憧れ、世間の違法行為を取り締まる仕事を切望し、つまりは、「自分はまっとうな人間である」という保証を、権力の側から取りつけたがっていたが、むろん、それはいびつなオブセッション(強迫観念)であり、公権力を養父と勘ちがいした孤児の錯覚、と言いうる心性である――(パンフレット)。

 つまるところ、リチャード・ジュエルは善人ではあったが、作中で「母親と同居している醜いデブ」などとキャシー・スクラッグス記者に揶揄されるような、恋人のいない/性的魅力に乏しい孤独な白人貧困層の男であった。

 畢竟(ひっきょう)ジュエルは、自らの外見や階層に対する劣等感ゆえに、

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