2・11シンポジウムで見えてきたこと
2020年02月18日
歳を取るのも悪くないと思う今日この頃。それでもスジのいい若い人たちの話を聞くと、やっぱり若いっていいなあと涙ぐみそうになる。今回はそんな話を書いてみたい。
去る2月11日、東京・神田駿河台の連合会館で「高校闘争から半世紀~私たちは何を残したのか、未来への継承~高校生が世界を変える!」というシンポジウムが開催された。
お気づきの方もおられるだろうが、去年(2019)は1969年の高校生闘争のピークから50年目のアニバーサリーイヤーだった。私は高校の仲間や先輩と一緒に『1969――それぞれの記憶』というささやかな文集をつくった。寄稿者の皆さんは、忘却の彼方から切れ切れの追想をかき集めて文章を書いてくれた。誰もが面白く読めるとは思わないが、我々には貴重な冥途の土産になったと思っている。
そんなことをひとつの縁にこの会のことを知り、参加した。
開演の15分前に到着してまず驚いたのは会場の賑やかなこと! 参加者はせいぜい100人ぐらいかと思っていたらとんでもなかった。大会議室はかつての活動家やシンパと思しきシニアですでに8割方埋まっている。事務局の友人も一時は受付がパンクしたと言っていたから、彼らも予想外の大盛況だったようだ。開演時には補助椅子も出て300人を超えたという。
プログラムは3部に分かれていて、第1部はかつての高校生活動家たちと山本義隆氏(元東大全共闘議長)との対話。早大教授高橋順一氏(武蔵高校)の司会で、都立北・麻布・都立上野・慶應・東京教育大付属駒場の諸氏が、当時の運動を紹介しつつ、全共闘運動のキーワード(「大学解体」や「自己否定」)をめぐって山本氏に問いを投げかけた。
その山本氏が対話の最後にこう語った。
「原発事故の直後に東大では、タテカンひとつ出なかった。昨年学園祭に訪れた京大では、香港の学生に対する連帯のビラひとつなかった。そうしたことを聞いて見て、俺は間違えたと思った。この50年間、俺はいったい何をしてきたのかと思ったのです」
山本氏の叫ぶような一言で、この会の本来の意味がより明確になったことは否めない。拍手が巻き起こる中、私はこの場所へやってきた理由を改めて考えていた。
第2部は、民主化闘争の巨大な焦点と化した香港からの報告。沖縄・北朝鮮を歩き、昨年来の香港デモを取材し続けている初沢亜利氏をナビゲーターに、在日香港人の二人のゲストと日本人の若者が壇上に上がった。
この対話から浮かび上がったひとつの論点は、なぜ「勇武派」と呼ばれる若者たちが暴力的な行動に出ても、一般の民衆から浮き上がらず、支持され続けているのか、ということだ。
この問いは急進派と大衆との分断というほぼ普遍的なテーマにつながる。日本でも、1960年代後半に佐世保や王子や新宿などで一瞬現出した学生と市民との連帯が、たちまち押しつぶされ見えない場所へ追いやられた経緯がある。
この疑問に対して文学研究者のL氏が放った答えは明確だった。
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