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『リチャード・ジュエル』と『テッド・バンディ』が批判する犯人の類型化

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

<イメージ>で犯人像を決めつけてはならない

 ドキュメンタリーの分野で活躍してきたジョー・バリンジャー監督の、『バンディ』は稀代の連続殺人鬼を扱いながらも、<反ホラー映画><反殺人ポルノ(猟奇的シーンを省いた映画)>である、という趣旨の発言は興味深いので、ここでそれを要約し、紹介しておこう(パンフレット所収のインタビュー)。

――『バンディ』は、テッド・バンディを追う捜査官を追うわけでもなく、恐ろしい犯罪行為によっておぞましいスリルを味わう彼の体験をたどるわけでもない。その代わり、観客はリズの立場で、事件の真相を追っていく。つまり、次々に展開する事件の真相がゆっくりと明らかになる中で、不当な有罪判決の物語という緊迫感が生じ、連続殺人犯の映画という型を壊すことができる。私(バリンジャー)はドキュメンタリー映画作家として、おもに刑事司法制度の改革や不当判決の窮状という問題を扱ってきたため(『パラダイス・ロスト<原題>』シリーズなど)、私(バリンジャー)がテッド・バンディの映画を撮ったのは奇妙なことに思われたかもしれない。しかし、この映画で描きたかったのは、人が相手を信じ込むことでいかにサイコパス(精神病質者)の餌食になるか、ということだ。バンディは本当にリズを愛していたのか? それこそがこの映画の答えのない問いかけである。専門家の多くは、人格異常者には人を愛する能力がないと思い込んでいる。私(バリンジャー)もその点は定かではないが、連続殺人犯の中に存在する二面性が関心を引いた。そして、実際の犯罪を取り扱ってきた経験からすると、邪悪な者というのは、連続殺人犯から小児性愛者のカトリック司祭に至るまで、あなたの隣人や高校のコーチのように見た目は普通の人なのだ。バンディ自身が(エンド・クレジットに流れる記録映像中で)注意しているように、「……人々は自分たちの中に殺人者が潜んでいることに気づいていない。好きになり、愛し、一緒に暮らし、慕っている人物が次の日には想像し得る限りの最も悪魔のような人間にならないとも限らない」のである。これこそ悪の本質だ。また、テレビ中継されたバンディの裁判と今日の実録犯罪ものの急増は、直接に結びついている(実録犯罪映画は、実在の犯罪事件を「糧(かて)」にして娯楽/エンタメの人気商品になる――藤崎注)。さらに、バンディの死刑執行はテレビでライブ放送され、何百万人もが視聴したが、要するに彼は連続殺人事件をテレビの見世物にしたわけだ。私(バリンジャー)は、実録犯罪ものを専門とするフィルムメーカーとして、自分の仕事が社会正義への意欲と結びついている、と思いたい。私(バリンジャー)は人々の悲劇から娯楽を作ることの矛盾を強く意識している(この言葉には、凶悪犯罪への好奇心と社会正義/倫理をめぐる、バリンジャー自身の相矛盾する思いが表れている。これは殺人鬼映画を娯楽として消費する、私たち観客の相反感情でもある――藤崎注)。

 このバリンジャー発言のポイントのひとつは、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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