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元「金の卵」たちにとって上野は今も「心の駅」だろうか?

【14】井沢八郎「あゝ上野駅」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

 「望郷」は歌謡曲の定番的モチーフのひとつだが、そのなかで大ヒットを射あてたものは、総じて、過剰なまでに涙腺と琴線を刺激する抒情的歌詞の横溢を特徴としている。

あまりに散文的な「望郷の唄」

 三橋美智也の「♪おぼえているかい別れたあの夜、泣き泣き走った小雨のホーム」の「リンゴ村から」(1956年)にしろ、美空ひばりの「♪つがる娘は泣いたとさ、つらい別れを泣いたとさ」の「リンゴ追分」(1952年)にしろ、春日八郎の「♪泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけ」の「別れの一本杉」(1955年)もしかり。そしてつい最近の島津亜矢の「♪おれたちゃ先に逝くやけん、おまえの思うとおりに生きたらよか」の「帰らんちゃよか」(2004年)も同様である。

 ところが、これでもかこれでもかと抒情の詞が連鎖する「望郷」のヒットソングのなかで、この「公理」がまるであてはまらない唄がある。それは井沢八郎の「あゝ上野駅」である。組み立てもストレートかつシンプルで、これほど散文的な歌詞でつづられたミリオンセラー曲もめずらしい。

「♪上野はおいらの心の駅だ」「♪就職列車にゆられて着いた 遠いあの夜を思いだす」「♪お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある」

唄:「あゝ上野駅」
時:昭和39年(1964)
場所:上野駅

そもそもは農家向け雑誌の「公募歌」だった

廃止直前の上野駅18番ホームに降り立つ井沢八郎=1999年9月8日

 この詞は、農協をスポンサーにした農家向け雑誌「家の光」が公募した「農村の唄」の当選作である。「賞金3万円、一流歌手によるレコード化」に惹かれて応募・投稿して見事一等を射止めたのは関口義明。埼玉のコメ農家に生まれ、高校卒業後地元の銀行に勤務していた当時22歳のアマチュアだった。

 曲がつけられて、いよいよ待ちにまったレコード化。しかし「一流歌手」を期待していたアマチュア作詞家を落胆させる。冒頭で掲げた「望郷のヒット曲」をうたいあげた国民的超大物は無理にしても、ヒット曲をもつそれなりの歌手どころか、井沢八郎という、名前も聞いたことがない27歳の新人歌手だったからだ。

 アマチュア作詞に無名の新人歌手という「初期条件」からすると、ヒットソングになる目はまずなかった。おそらく主催者の「家の光」誌もレコード会社の東芝音工も大した期待は抱いていなかったのではないだろうか。

 ところが、発売されるや、爆発的な支持を得て、後に累計で100万枚超を売り上げ、いまも歌い継がれるロングヒット歌謡になる。

 その理由は何だったのか? 今から振り返ると、もっとも大きかったのは昭和39年(1964)の年度初めというリリースのタイミングにあったと思われる。

「金の卵」への人生の応援歌

 この年に開催された東京オリンピックで日本経済は弾みをつけ、高度成長を一気に加速化、それを支える「労働力」として多くの若者たちを

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