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「休みの国」は最後まで1960年代の「旅」を歌い続けた

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

 前回、「休みの国」というバンドについて書いた。ジャックスの近くにいた高橋照幸が曲を書き、ジャックスのメンバーの演奏で歌う“ひとりバンド”だ。1969年にURCから最初のアルバムを出し、その斬新な曲調と謎めいた歌詞が注目を集めた。

 その後の活動はあまり知られることはなく、高橋もメジャーな音楽シーンには縁がなかった。

 おそらく井上陽水も荒井(松任谷)由実/ユーミンも、「休みの国」にとっては大きな関心事ではなかっただろう。1973年12月にヨーロッパから帰国した高橋照幸は、改竄されたアルバムに愕然としながらも、もう一度足場を固めようとする。

 彼は「カイゾク」という綽名(あだな)に導かれるように、湘南の造船所で働き、自力でヨットを建造する技術を身につけた。東京・町田に居を構え、友人たちと長年かけて40フィートのヨットをつくり続けた。その一方で曲を書き、詞を付け、アルバムのコンセプトを練った。

高橋照幸は、1978年から東京都町田市の山中でヨット製作に取り組んだ。40フィート級、樹脂製のクルーザー。設計図にはミキシングルームも=1981年高橋照幸は、1978年から東京都町田市の山中でヨット製作に取り組んだ。40フィート級、樹脂製のクルーザー。設計図にはミキシングルームも=1981年

 もっとも音楽だけで食えるはずもなく、小田急線鶴川駅のそばの居酒屋で焼き鳥を焼いた時期もある。後年テレビのドキュメンタリー番組では、「いろんな仕事をしたけど、みんな本職でしかもみんな遊びなんだ」と嘯(うそぶ)いている(『俺は21世紀の遊び人間』、テレビ東京、1984)。音楽仲間のつのだひろや作家の戸井十月も高橋の「型破り」と「ツッパリ」に舌を巻く。確かに映像に映る高橋には、音楽を通して感じた柔弱さはみじんもない。「カイゾク」のニックネームはあながち誇張ではなかったようである。

 高橋は、1976年秋からアルバムの自主製作に着手した。77年夏にようやくレコーディングに漕ぎ着け、発売されたのはその年の暮れだった。彼にとっては3枚目のオリジナルアルバムになった「トーチカ(TOCHKA)」である。

 トーチカとは、鉄筋コンクリート製の小規模な防御陣地を指す軍事用語だ。ロシア語の原義は「点」である。高橋がこの言葉にどんな意味を込めたのかは不明だが、私には、「ニューミュージック」の大攻勢に対する防御の拠点のように思えて仕方がない。

 いや、それもやや偏狭な見方だろう。むしろ71年から73年までの3年間の不在は、高橋を「ニューミュージック」から(たぶん幸いにも)避難させるように働いたから、井上陽水も荒井由実も高橋には別の世界の住人だったに違いない。彼は「追放の歌」を歌った地点に踏みとどまり、そこからまた自分の歌を歌い始めただけかもしれない。

 なぜなら、彼の歌には「防御」や「敵対」がもたらす力みがないからだ。「トーチカ」の曲はどこか頑なな核を蔵しているものの、とても伸びやかだ。その伸びやかさは、たぶん海賊という自己像の天衣無縫さと同義である。

 1曲目の「フラリフラフラ」は、「あの町」と「この町」を行ったり来たりする「私」の物語である。「そんなに近い所じゃない」二つの町がどこなのか何も説明されていない。どんな目的で「私」が行き来しているのか、その理由も分からない。それでも旅人は「冷えた心にまた火をつけて」遠い道のりをフラリフラフラと歩き出すのである。

 「フラリフラフラ」という副詞句にうっかり騙されてしまえば、「放浪」というややロマンチックな言葉に流れ着いてしまうが、高橋の歌っているのはあてどない流浪ではなく、明らかに二つの場所の往還なのである。

 「あの町」も「この町」と同様、もはや憧憬の対象ではなくすでに何度も訪ね、暮らしたことのある町だ。高橋にとってそれは数年暮らした北欧の都市なのかもしれない。慣れ親しんだ人も界隈もあるものの、そこに居続けることはできない。そのうちいつか「この町」へ帰ってくるのは分かっている。

 もちろん、「この町」も同様である。あてどなく流れていくのではなく、また戻り帰るために、ふたつの町の一時の暮らしがある。昼と夜があり、朝と夕があるように、世界はふたつの場所で構成されている。

もう半分の夢の行方

 かつて人は、「あの町」をフルサトと呼んだ。懐かしむにせよ遠ざけるにせよ、「あの町」はいつも記憶の中にあり、気がかりな場所だった。1970年代半ばは戦後故郷を出てきた人々が都市に定着したことで、本格的な故郷喪失が始まった時期でもある。

 日本語で新しいタイプの曲をつくり歌い始めた者たちは、この動向に敏感に反応し、新しいフルサトの歌をつくった。西岡たかし(「ふる里の言葉は」、1971)や吉田拓郎(「夏休み」、1971)を先駆けに、山崎ハコ(「望郷」、1975)や中島みゆき(「ホームにて」、1977)も故郷の歌を口にした。

 流行歌の世界でも同様の動きがあった。私は、五木ひろしの「ふるさと」(1973)に兆しを見ながら、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975)が戦後望郷歌の最後のピークとなったと書いたことがある。

 しかし

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