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中居正広が選んだ“のんびり”な冒険~異例の退所会見から読み取れること

太田省一 社会学者

 本来そういう場ではないはずだが、つい楽しんでしまったというひとも少なくなかったのではないだろうか。先日開かれた中居正広のジャニーズ事務所退所会見のことである。

 取材陣を自ら会見場に出迎えるサプライズから始まった会見は、手書きの「フラッシュの点滅にご注意ください」のボード、物まねを織り交ぜた東山紀之とのやり取りの再現、城島茂への報告忘れを謝るくだりなど、終始とても彼らしい気遣いとサービス精神を感じさせるものだった。

 有名芸能人が数十年間所属した芸能事務所を辞めるというのは、いうまでもなくきわめて大きな決断である。ましてや、3年少し前にあれほど世間の耳目を集めたSMAPの解散があっての今回の退所である。その発表会見ともなれば、重苦しい雰囲気になってもおかしくない。しかし、たったひとりで受け答えをした約2時間に及ぶ会見にそのような雰囲気は一切と言っていいほど感じられなかった。

 そんな異例の会見になった理由はなんだろうか? それを理解するには、やはりSMAPというグループについてもう一度振り返ってみる必要があるだろう。

 「僕らなんかはやはり変わったグループだったかもしれないですよね」。これは会見で、現在のジャニーズの体制について聞かれたときに中居正広がふともらした一言である。

 ジャニーズの歴史で見ても、SMAPは確かに「変わったグループ」だった。

 ジャニーズの原点には、オリジナルミュージカルを中心とした舞台志向がある。その理念は、ジャニー喜多川がジャニーズ事務所を1960年代に創設して以来、いまも連綿と受け継がれている。

 それに対し1991年にメジャーデビューしたSMAPは、テレビにメインの活動の場を求めた。もちろんそれまでのジャニーズタレントもテレビで活躍はしていた。だがSMAPは、音楽番組だけでなくジャンルを超えて活動の幅を広げた点で大きく違っていた。そして最終的にSMAPは、一心同体と思えるほどまでテレビにとって不可欠な存在になった。それは裏を返せば、ジャニーズの歴史において「変わったグループだった」ということになる。

 なかでも“テレビのSMAP”を確立するきっかけになったのが『SMAP×SMAP』(フジテレビ系、1996年放送開始)に代表されるバラエティであったことは、よく知られるところだろう。アイドルが本格的な冠バラエティ番組を持つことは、それまでになかった挑戦であったと言っていい。

 そして中居正広はとりわけバラエティに深くかかわろうとしたメンバーであり、そのなかで番組MCとしての評価を高めていった。1997年に初めてジャニーズのタレントとして『NHK紅白歌合戦』の白組司会(当時25歳は、史上最年少記録)を務めたことなどは、その表れだろう。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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