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ネット経由の緩いリベラルな「読書」――格別面白い2つの連載

今野哲男 編集者・ライター

揺らいだ末に行き着いたリベラルという「揺らぎ」

 同世代の同業者と話していると、「ネットが書籍を駆逐する」といった、もう聞き飽きてしまったステロ・タイプな言い方が、いまだに残っていることに驚く。経営者? それとも定年を控えたしがない一労働者? どんな立場や射程で言っているのかは、人によってそれぞれ違うのだろうが、そういう一種停滞した言い方には、押しなべて一つの共通した臭いがある――今の政治に通じる内実のない権威というものを思わせる、とても貧し気な臭いである。

 その昔、岩波新書に当時はリベラルで鳴らしていた精神科医「なだいなだ」の、『権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理』(1974年)という本があった。本文中に、まだ若い頃のBEATLESが引かれたりして、岩波新書にはない型破りの軽目の雰囲気を持った本だったが、その本文にはタイトルが言う通り「言うことを(無理に)聞かせようとする権力に対し、(人々が自発的に)言うことを聞く権威」について書いてあった。言い換えれば、権力は内実がなくとも「持ったり」、「奪ったり」できるが、権威は自分の内実に対して、周りの人々の目によって「与えられる」ものだということだ。

なだいなだ2009年『権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理』の著者・なだいなだ=2009年

 「全共闘」の息吹がまだそれなりに残っていた時期だったこともあって、ノンポリ(nonpoliticalの略で、政治運動に関心が薄いこと、あるいはそういう人)ながらも、その運動にかすかなシンパシーを持っていた私は、リベラルな「なだいなだ」の――因みに、このペン・ネームはスペイン語のnada y nada(「なにもなくて、なにもない」の意)に由来するらしいが、どこかBEATLESのNOWHERE MANを思わせる――温和な考えが染み入り、72年の連合赤軍の辛さを経たあとの脱イデオロギーの季節が来ていたこともあって、遅まきながら、奇しくも全共闘が反発していたリベラルな「戦後民主主義」に肩入れするようになった。

 当時はそういう人はかなりいて、たとえば私は2000年代に入ってから、高校の同級生で60年代末を共有した、今では写真評論家になった男にインタビューし、遡ることほぼ40年ぶりにあの時代を振り返り、『戦後民主主義と少女漫画』(飯沢耕太郎、PHP新書、2009年)という本にまとめたことがある。

 ざっとそのように形成された自分たちなりの空想のリベラルだったが――これでも独学の空想社会主義者・フーリエやオーウェンのことも調べたりしたのだ――、現実社会では既に80年代ころからその綻びが見え出していた。いわゆるポスト・モダンブームがあったバブル経済と高度大衆消費社会が最高潮に達した年代だが、そのカクテル光線のような文化的眩しさの向こうで、政治的なかじ取りをしていたのが、82年から首相を務めた海軍上がりの政治家・中曽根康弘だった。「不沈空母」発言でリベラルの反発を受けた彼は、その実、国内で「土光臨調」ともてはやされた行政改革を断行し、国外では80年にアメリカの大統領になったロナルド・レーガンと「ロンヤス関係」を結んで、その後の小泉、安倍と続く保守の体制内反動革新路線――そんな用語はどこにもないと思うが――に先鞭をつけた。

 この間、リベラルは長期低落の道を辿った旧・社会党の動静と運命を共にした感が強いが、私はその政治的な端緒は、70年代の半ば、ピンポン外交で頭越しに中国と手を結んだ米国に、日中国交回復で沈黙の意趣返しをした田中角栄に、日米を跨ぐロッキード汚職に乗じて引導を渡した自民党のリベラル・三木武夫にあったのではないかと思っている。正義の皮を被ってとまでは言わないが、その単純で想像力を欠く、わずか2年のポピュリズムが引き出したものは、有体に言えば敗戦以来引き続いてきた、最近は漸く認知されつつある疑似宗主国アメリカの植民地的支配の継続と、リベラルとは反りの合わない反動保守の政治家、福田赳夫の次期首相就任だったのだから。

 リベラルと目される勢力が、同じリベラルと目される違う勢力の芽を摘むことは、この国では珍しいことではない。鳩山由紀夫の首相辞任や民主党の政権離脱に、その手の力が陰に陽に働いたことは想像に難くないし、近いところでは「れいわ新選組」を巡ってもいろいろあるようだ。

 私の見るところ、保守が一貫して「いい加減」であったのに対し、日本のリベラルには、同調圧力や公に対する「批判的な態度」と個人に対する「緩さ」に欠けるきらいがあるのだ。因みにリベラル(Liberal)には、型通りの「自由主義者」という語義のほかに、「気前のよい」、「大まかな」、「(…を)惜しまないで」、「けちけちしないで」、「寛大な」、「度量の大きい」、「開放的な」、「偏見のない」、「豊富な」といった「緩い」訳語が目白押しなのに(「weblio英和辞典」)。

本当のリベラルを知るために

 では、手練手管が不可欠な政治の分野ではなく、一般人として「一貫性」と「緩さ」を併せ持ったリベラルであり続けるためには、どうすればよいのか。「それは~」などと、ここで「お為ごかし」を弄するつもりはない。

 ただ、私見では「これは、かなりいいんじゃない」と推薦したいものはある。それは、冒頭で述べた「ネットが書籍を駆逐する」というような予言を装った退嬰的な「お為ごかし」に、肘鉄を食らわす痛快至極なネット上の企画である。いずれも、書籍の執筆を生業とする、私見では筋金入りの「揺るぎない緩いリベラル」と目される人の連載だ。――「揺るぎないリベラル」なんて、今のこの国では形容矛盾のように聞こえるかもしれないけれど。

 ネット全体に目が届くわけがないので、幾つもあるに違いない同種の企画の中から、まずは格別面白いと思われる二つを紹介する(ご存じの方は読み飛ばして下さい)。一つ目は、「現代書館」のWEBマガジンに連載中の「斎藤美奈子・森達也対談」だ。

 片や文芸評論家、片や作家・映画監督、名うてのリベラルとして世評の高い、県立新潟高校の同期生でもある二人の論客が、時々の時事問題や文学の話題を、「往復メール」で語り、それぞれの視点で主張をし合うという体裁だが、ネットやメールの特性である「書かれる話し言葉」の融通無碍なところが、目まぐるしく移り変わるテーマに反映し、読んで飽きる事がない。

「現代書館」のwebで連載中の斎藤美奈子さん「現代書館」のwebで森達也との対談を連載中の斎藤美奈子
「現代書館」のwebで連載中の斎藤美奈子さん森達也

 連載は2009年7月に開始されており、もう10年以上になるが、両名に半月ずらして月1回の締め切りが設けられ、連載回数が最新回の2020年2月19日の回で100回目。締め切り通りであれば250回を超える計算なのに、どうやらそこもやや「緩い」ようだ。しかし、アーカイブ化されて目次もついており、全ての回が時系列で読めるのが有難い。どこから読んでもいいし、どこを読んでも面白いのだが、スペースが限られているので、今回は目次で目に付いた2009年11月10日付の、森達也の「人類はメディアで滅亡する(6)」と題された回の末尾部分を紹介する。

――今日の日付は8月30日未明。衆院選の帰趨はほぼ決しました。民主の圧倒的勝利。前回の総選挙の際には、優勢(ママ)民営化是か非か式の二項対立で自民の圧倒的勝利。そして今回は、政権交代是か非か式の(やっぱり)二項対立選挙で民主の圧倒的勝利。どっちも共通することは民意の暴走。二大政党制の弊害は政治がポピュリズム化すること。やっぱりこの国にはこの制度は危険すぎる――。

 出来事としては古いが、この国にありがちな「二項対立」という、中間項が見えないという根源的な問題を提起しているのが目を引く。こういう古さが古くならない捉え方は斎藤美奈子にも共通で、この「対談」最大の魅力になっている。どの回もメールの全文ではない気配があるので、いずれ単行本化されるのだと思う。

ネット連載は、今までにない書籍を生むか

 さて、二つ目は紙幅が尽きたので簡潔に行く。「マガジン9」上にある、「雨宮処凛がゆく!」という勇ましい名前をもった連載である。

雨宮処凛さんweb「マガジン9」で「雨宮処凛がゆく!」を長期連載中の雨宮処凛

 「作家」と「活動家」という二つの肩書を自称する彼女を、私は稀な正直さを持つリベラルな人だと思っている。そのプレカリアートとしての「活動レポート」と著書の「紹介(情宣)」を主目的に続けている連載だが、やはり書籍化が射程にあるのだろう、彼女の作家としての力が伝わってくる文章で、2007年の3月21日に初アップされ、不定期で続いてきた。2020年2月26日付の最新のタイトルは「第512回:相模原障害者施設殺傷事件、結審。2月17日、19日傍聴記〜植松被告は、最後に何を述べたのか〜の巻」。その前の第511回は、2月12日の「第511回:『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』出版!!の巻」。

 ほぼ10日に一度のペースだが、彼女の報告を見ていればリベラルが知っておきたい昨今の社会問題については概ねフォローが可能になると思う。もちろん、それについての主張や意見はリベラルな貴方次第だが。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。