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フレンチ・ミュージカルの精華、ジャック・ドゥミ&ミシェル・ルグラン!

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

男女数人が出会い・すれちがい・別れを繰り返す傑作

■『ローラ』(1961、モノクロ)
 「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と呼ばれるドゥミの処女長編。ドゥミが少年期を過ごしたフランス西部の港町ナント――彼にとっての特権的な土地/トポス――を舞台にした3日間のドラマだが、数人の男女を代わる代わる前景化し、彼、彼女らが出会い・すれちがい・別れを繰り返すというドゥミ的な作風を確立した傑作だ。

ローラ拡大『ローラ』=「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」のサイトより

――おもな登場人物は、一人息子を育てながら7年前に姿を消した初恋の男/息子の父親、ミシェル(ジャック・アルダン)を待ちつづける、切れ長の大きな目が蠱惑的(こわく)な踊り子ローラ(アヌーク・エーメ)、ローラに片思いする彼女の幼なじみロラン・カサール(マルク・ミシェル)、元踊り子のデノワイエ夫人(エリナ・ラブールデット)、その10代の娘セシル(アニー・デュペルー)、アメリカ人水兵のフランキー(アラン・スコット)。――ロランは、放浪癖のある世間知らずの文学青年だが、コケットリー(媚態)を振りまく快活なローラは、初恋の男ミシェルを忘れられず、ロランの愛を受け入れない。だがローラは、純情一辺倒ではなく、ミシェルと似ている水兵フランキーとは時おりベッドを共にする(細身だが骨格がしっかりしたアヌーク・エーメの身体は、たまらなく官能的だ)。

 そんな踊り子ローラは、終始、プラスの意味で深さを欠いた表面だけの存在として、軽やかに儚(はかな)げに漂いつづける。水兵フランキーも、血肉をそなえた人間というより、白いセーラー服を着た記号的存在のように軽妙に振る舞う(本作以後、<水兵>はしばしば、ドゥミの登録商標のようにドラマの背景に見え隠れする)。

 未婚の母デノワイエ夫人も、ロランにかすかな恋情を抱くかに見えるが、ほとんど喜怒哀楽を表さない。やや陰気なロラン/マルク・ミシェル一人が内面の起伏を表すが、それとて、ごく控えめなものであり、つまるところ『ローラ』で紡がれるのは、軽やかに儚くスクリーンをよぎっていく人間模様だ。そして、名カメラマン、ラウル・クタールの露出過多のカメラが美しくとらえた、白くまばゆい陽光に満ちたナントを舞台に、そうした儚げな描法によって浮かび上がる男女のドラマが、なんとも魅力的なのだ。

 『ローラ』における運命的なロンドのような男女のドラマは、さらにフランキーとセシルの出会いと別れ――バッハの平均律クラヴィーアが流れるなか、二人が回転木馬で戯れるシーンの無重力的な超スローモーションは忘れがたい――、ローラにふられたロランの旅立ち、家出し父親の住むシェルブールへ向かうセシル、彼女を追って旅立つデノワイエ夫人、ローラとミシェルの再会……というふうに続いていく。

 なお、セシルという娘の名前は、少女時代のローラの名前でもあり、つまりセシルは若き日のローラの姿であることや、ロランに扮するマルク・ミシェルが、同じ役名の宝石商として3年後に撮られる『シェルブールの雨傘』(1964)に再登場することも、ドゥミのいわば円環状の作劇法の一端を示している。そういえば、水兵フランキーが向かうのも新しい駐屯地、シェルブールで、したがってセシルが父親の住むその港町へと旅立つのは、フランキーを追うためでもある。

 ところで『ローラ』は、メロドラマ的艶笑譚の名匠、マックス・オフュルス監督に捧げられていて、冒頭ではオフュルスの傑作『快楽』(1952)第二話の主旋律が流れるが、『ローラ』の描く男女の出会いと別れの連鎖/ロンドは、文字どおり『輪舞 La Ronde』という題名のオフュルスの傑作(1950)に霊感を得たものだろう(ただし、ドゥミ映画のカメラは流れるような見事な動きを見せるが、オフュルスのそれのような目まぐるしい流動感はない)。

 また『ロ―ラ』には、ドゥミの敬愛するもう一人の偉大な映画作家、ロベール・ブレッソンへのオマージュが刻印されているが、若きドゥミを震撼させた、女の復讐を冷徹かつ戦慄的に描くブレッソンの恐るべき傑作、『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)のヒロイン/踊り子役のエリナ・ラブールデットがデノワイエ夫人を演じているのは、けだし、ドゥミのブレッソンへの讃辞なのである(作中では、『ブローニュの森の貴婦人たち』のダンサー姿のラブールデットを写したスチール写真が引用される!)。空間描写の点では、ナントの海沿いの光り輝く風光とともに、カメラが画面の奥行を活かした縦の構図でとらえる、パサージュ(passage)と呼ばれるアーケード商店街の通路が印象深い。

 ちなみに『ローラ』では、ローラ/アヌーク・エーメが長い煙管(キセル)をくわえて踊り唄うくだりが、ほとんど唯一の、しかし目を見張るような艶やかなミュージカル・シーンだが、全編をミシェル・ルグランの音楽に伴奏された本作は、やはり、れっきとしたドゥミ&ルグランのミュージカル映画だ(ルグランは、撮影後のアヌーク・エーメの口の動きに合わせて作曲する離れ業をやってのけた!)。

 急いで付言すれば、モノクロ・フィルムで撮られた低予算で多焦点的な『ローラ』は、最も(狭義の)ヌーヴェルヴァーグ的ドゥミ作品であり、ロラン/マルク・ミシェルが「たったひとりの友だちだったミシェル・ポワカールも殺された」と言い、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)でジャン=ポール・ベルモンドが演じた主人公(ミシェル・ポワカール)に言及する場面や、街頭撮影のシーンで、マーク・ロブソン監督、ゲイリー・クーパー主演の『楽園に帰る』(1953)を上映中の映画館が映る瞬間がある(初期ヌーヴェルヴァーグ作品の街頭ロケでは、しばしば映画館が撮られた)。さらに、ゴダールが『ローラ』の「製作顧問」であったこと、ラウル・クタールが『勝手にしやがれ』の撮影監督であったことを付け加えておこう。<星取り評:★★★★★+★/DVDあり>

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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