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フレンチ・ミュージカルの精華、ジャック・ドゥミ&ミシェル・ルグラン!

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 20世紀後半のフランス映画音楽の第一人者、ミシェル・ルグラン(1932~2019)。彼が楽曲を手がけた数々の映画の中から、選(よ)りすぐりの7本が東京・YEBISU GARDEN CINEMAで上映中だ(特集上映「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」)。

 演目は、ジャック・ドゥミ監督(1931~1990)の『ローラ』(1961)、『シェルブールの雨傘』(1964)、『ロシュフォールの恋人たち』(1967)、『ロバと王女』(1970)、ジャン=リュック・ゴダール監督 (1930~) の『女は女である』(1961)、『女と男のいる舗道』(1962)、アニエス・ヴァルダ監督(1928~2019)の『5時から7時までのクレオ』(1961)。いずれも見逃せない逸品だが、本稿では、ミシェル・ルグランと計11本の映画を“共作“し、互いが「双子の兄弟のような関係」と公言していたジャック・ドゥミの前記4作品を2回にわたって取り上げたい。

ミシェル・ルグラン1932年2月24日 - 2019ミシェル・ルグラン(1932―2019)

 なおフランスの「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」は、厳密には1950年代末~60年代初頭の、ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルらを旗手とする、ロケーション撮影・低予算早撮り・即興演出を重視した“映画革命”をさす呼称だが、今回の特集タイトルのように、大まかに1960~70年に撮られたフランス映画をさすこともある。

 そして、ドゥミや1962年に彼と結婚したアニエス・ヴァルダは、ヌーヴェルヴァーグの中心的存在であったゴダール、トリュフォー、シャブロルらが「カイエ派」――事務所がセーヌ河右岸にあった「カイエ・デュ・シネマ」誌を拠点とした――と呼ばれたのに対し、セーヌ河左岸を交友の場としたことから「左岸派」と呼ばれたが、両者は敵対するグループではなく、協力関係・共闘関係にあった“同志”だった。ちなみにトリュフォーの長編第1作『大人は判ってくれない』(1959)には、ドゥミがワンシーン、友情出演している。

 では、ドゥミの作家的特徴はといえば、映画史に亀裂を入れたゴダールの過激さや、鮮烈で痛切な子供映画や恋愛映画の名手トリュフォーの先鋭さ、あるいはサイコスリラー風の犯罪映画を偏愛したクロード・シャブロルの異形さとも異なる、恋愛ドラマを甘美で儚(はかな)く辛辣なお伽話調のミュージカルに昇華する作風や、しばしば男女の出会い・すれちがい・別れの連鎖をロンド(輪舞)のごとく描く作劇、あるいは19世紀の文豪オノレ・ド・バルザックの「人間喜劇」のような、複数の作品にまたがって何人かの人物を登場させる<人物再登場>の手法に、それは顕著である。

男女数人が出会い・すれちがい・別れを繰り返す傑作

■『ローラ』(1961、モノクロ)
 「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と呼ばれるドゥミの処女長編。ドゥミが少年期を過ごしたフランス西部の港町ナント――彼にとっての特権的な土地/トポス――を舞台にした3日間のドラマだが、数人の男女を代わる代わる前景化し、彼、彼女らが出会い・すれちがい・別れを繰り返すというドゥミ的な作風を確立した傑作だ。

ローラ『ローラ』=「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」のサイトより

――おもな登場人物は、一人息子を育てながら7年前に姿を消した初恋の男/息子の父親、ミシェル(ジャック・アルダン)を待ちつづける、切れ長の大きな目が蠱惑的(こわく)な踊り子ローラ(アヌーク・エーメ)、ローラに片思いする彼女の幼なじみロラン・カサール(マルク・ミシェル)、元踊り子のデノワイエ夫人(エリナ・ラブールデット)、その10代の娘セシル(アニー・デュペルー)、アメリカ人水兵のフランキー(アラン・スコット)。――ロランは、放浪癖のある世間知らずの文学青年だが、コケットリー(媚態)を振りまく快活なローラは、初恋の男ミシェルを忘れられず、ロランの愛を受け入れない。だがローラは、純情一辺倒ではなく、ミシェルと似ている水兵フランキーとは時おりベッドを共にする(細身だが骨格がしっかりしたアヌーク・エーメの身体は、たまらなく官能的だ)。

 そんな踊り子ローラは、終始、プラスの意味で深さを欠いた表面だけの存在として、軽やかに儚(はかな)げに漂いつづける。水兵フランキーも、血肉をそなえた人間というより、白いセーラー服を着た記号的存在のように軽妙に振る舞う(本作以後、<水兵>はしばしば、ドゥミの登録商標のようにドラマの背景に見え隠れする)。

 未婚の母デノワイエ夫人も、ロランにかすかな恋情を抱くかに見えるが、ほとんど喜怒哀楽を表さない。やや陰気なロラン/マルク・ミシェル一人が内面の起伏を表すが、それとて、ごく控えめなものであり、つまるところ『ローラ』で紡がれるのは、軽やかに儚くスクリーンをよぎっていく人間模様だ。そして、名カメラマン、ラウル・クタールの露出過多のカメラが美しくとらえた、白くまばゆい陽光に満ちたナントを舞台に、そうした儚げな描法によって浮かび上がる男女のドラマが、なんとも魅力的なのだ。

 『ローラ』における運命的なロンドのような男女のドラマは、さらにフランキーとセシルの出会いと別れ――バッハの平均律クラヴィーアが流れるなか、二人が回転木馬で戯れるシーンの無重力的な超スローモーションは忘れがたい――、ローラにふられたロランの旅立ち、家出し父親の住むシェルブールへ向かうセシル、彼女を追って旅立つデノワイエ夫人、ローラとミシェルの再会……というふうに続いていく。

 なお、セシルという娘の名前は、少女時代のローラの名前でもあり、つまりセシルは若き日のローラの姿であることや、ロランに扮するマルク・ミシェルが、同じ役名の宝石商として3年後に撮られる『シェルブールの雨傘』(1964)に再登場することも、ドゥミのいわば円環状の作劇法の一端を示している。そういえば、水兵フランキーが向かうのも新しい駐屯地、シェルブールで、したがってセシルが父親の住むその港町へと旅立つのは、フランキーを追うためでもある。

 ところで『ローラ』は、メロドラマ的艶笑譚の名匠、マックス・オフュルス監督に捧げられていて、冒頭ではオフュルスの傑作『快楽』(1952)第二話の主旋律が流れるが、『ローラ』の描く男女の出会いと別れの連鎖/ロンドは、文字どおり『輪舞 La Ronde』という題名のオフュルスの傑作(1950)に霊感を得たものだろう(ただし、ドゥミ映画のカメラは流れるような見事な動きを見せるが、オフュルスのそれのような目まぐるしい流動感はない)。

 また『ロ―ラ』には、ドゥミの敬愛するもう一人の偉大な映画作家、ロベール・ブレッソンへのオマージュが刻印されているが、若きドゥミを震撼させた、女の復讐を冷徹かつ戦慄的に描くブレッソンの恐るべき傑作、『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)のヒロイン/踊り子役のエリナ・ラブールデットがデノワイエ夫人を演じているのは、けだし、ドゥミのブレッソンへの讃辞なのである(作中では、『ブローニュの森の貴婦人たち』のダンサー姿のラブールデットを写したスチール写真が引用される!)。空間描写の点では、ナントの海沿いの光り輝く風光とともに、カメラが画面の奥行を活かした縦の構図でとらえる、パサージュ(passage)と呼ばれるアーケード商店街の通路が印象深い。

 ちなみに『ローラ』では、ローラ/アヌーク・エーメが長い煙管(キセル)をくわえて踊り唄うくだりが、ほとんど唯一の、しかし目を見張るような艶やかなミュージカル・シーンだが、全編をミシェル・ルグランの音楽に伴奏された本作は、やはり、れっきとしたドゥミ&ルグランのミュージカル映画だ(ルグランは、撮影後のアヌーク・エーメの口の動きに合わせて作曲する離れ業をやってのけた!)。

 急いで付言すれば、モノクロ・フィルムで撮られた低予算で多焦点的な『ローラ』は、最も(狭義の)ヌーヴェルヴァーグ的ドゥミ作品であり、ロラン/マルク・ミシェルが「たったひとりの友だちだったミシェル・ポワカールも殺された」と言い、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)でジャン=ポール・ベルモンドが演じた主人公(ミシェル・ポワカール)に言及する場面や、街頭撮影のシーンで、マーク・ロブソン監督、ゲイリー・クーパー主演の『楽園に帰る』(1953)を上映中の映画館が映る瞬間がある(初期ヌーヴェルヴァーグ作品の街頭ロケでは、しばしば映画館が撮られた)。さらに、ゴダールが『ローラ』の「製作顧問」であったこと、ラウル・クタールが『勝手にしやがれ』の撮影監督であったことを付け加えておこう。<星取り評:★★★★★+★/DVDあり>

すべてのセリフが歌われる真の映画的リアル

■『シェルブールの雨傘』(1964)
 登場人物全員がすべてのセリフを歌ってしまう(!)、しかしオペラの芝居がかった重厚さはみじんも感じられない、フレンチ・ミュージカル映画の独創的な傑作で、ジャック・ドゥミの名を世界に知らしめ、第17回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得し(当時のカンヌのレベルは何と高かったことよ!)、ミシェル・ルグランの作曲した甘く切ない主題歌も大ヒットし、ヒロインを演じたカトリーヌ・ドヌーヴの出世作ともなった。

『シェルブールの雨傘』=「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち」のサイトより

 描かれるのは、アルジェリア戦争下のフランスの港町、シェルブールを舞台にした、若い男女の別れと新たな出会いであるが、物語の大筋はこうだ。――傘屋を営むシングルマザーの女主人、エムリー夫人(アンヌ・ヴェルノン)の娘ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、自動車工のギイ(ニーノ・カステルヌーヴォ)と恋仲だったが、ギイは戦争に召集される。妊娠し孤独の身となったジュヌヴィエーヴは、宝石商ロラン・カサール(マルク・ミシェル)と出会い、葛藤の末、経営難に陥っていた傘屋の状況と母親の懇願によって、彼と結婚し、シェルブールを去る。ギイは負傷して戦地から帰還するが、傘屋は閉まっていた。しかし、ギイも新たな伴侶を得て再出発する……。

 というふうに、この映画では、焦点人物が入れ替わっていく多焦点的な『ローラ』とは対照的に、ひとりのヒロインの葛藤を中心に、いわば求心的に悲恋のメロドラマが――成瀬巳喜男ふうに――展開されることも、興行的に成功した大きな要因の一つだっただろう。ただし前述のように、『ローラ』でナントを去ったロラン・カサール/マルク・ミシェルが、宝石商になって再登場する『シェルブール』は、『ローラ』の密かな続編でもあるのだ。

 ジャック・ドゥミは、自作における<男女の出会い・すれちがい・別れ>について、

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