三島由紀夫が笑った、全共闘は吠えた
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』をめぐって
菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師
解放区の時間と空間
この映画の「ストーリー」を本稿で書く必要はないだろうし、そもそも通常の映画のような脚本や演出があるわけではない。ただし、全体を通して大きな論点がふたつあったことは述べておいていいだろう。
そのひとつは空間と時間をめぐるものだ。もっと具体的にいえば「解放区」の問題である。三島は「解放区」という空間の価値は、その持続能力によって測られるのかと問いかける。歴史は持続ではないのかという三島の問いに対し、芥はこう答える。
持続じゃないでしょう。むしろ可能性そのものの空間のことでしょう。おそらく自由そのもの。ところが人間というものは自由に直面するとそこで敗退してしまうという、そういう文明の習慣が身についてしまったということでしょうね。それを明らかにしたということでしょう。だからまだ全共闘のバリケードにしろ何にしろ一つの歴史の認識の一形態として、狙撃銃的な認識でなくて、散弾銃による走りながらの認識。サルトル以後の認識の形態だと思う。(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争』、1969)

© 2020 映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」製作委員会
芥は身体を起点とした演劇空間の創出を目指していた。新左翼用語とは異なる、彼の独特の言葉遣いこそ、この日の討論会に「破格」をもたらした第一要因だった。三島は芥(のような人物)の登場を予測していなかっただろう。前年から一橋大学、早稲田大学、茨城大学などで学生とのティーチ・インを行っていたが、芥のように難解な言葉を操る学生はいなかった。会場の学生たちにも、正確な意味は理解不能だったはずだ。
それでも現場にいた者たちは、彼の言葉の群れが指し示す「方角」は了解できたのではないか。全共闘運動が投げかけたテーマには、
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