2020年04月06日
志村けんさんが突然旅立った。ザ・ドリフターズの加藤茶さんは「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです」とコメントしたが、その気持ちは関係者だけでなく、日本中誰もが同じ。老若男女誰の心にも、志村さんの笑いが存在する。こんなコメディアンは、他にいない。
しかも、志村さんはこれから「第四の新たな顔」を見せてくれるはずだった。
志村さんの第一の顔は、言うまでもなくドリフターズの一員としての顔である。第二の顔はグループを離れて自分の冠番組で見せた顔。第三の顔は、近年、力を入れていた舞台公演の座長の顔。そして第四の顔は、俳優としての顔だ。これらは常に同時進行していて、影響し合い、しばしばネタも重なる。志村さんの芸歴46年の間、重なりながら続いたことが、この人の芸のすごいところだと思う。
第一の顔を考えるとき、重要になってくるのは、ザ・ドリフターズというグループが歩んだ道のりだ。私はこの5年、50年代から70年代前半の日本のテレビ黎明期について関係者の取材を続けてきたが、そこではドリフターズの名前がよく出てきた。メンバーが入れ替わりながら音楽バンドとして活動していたドリフターズは、先輩格のハナ肇とクレージーキャッツがコミカル路線で大人気となったことに刺激され、同じ道を選ぶ。
ドリフターズは1966年のビートルズ来日公演の前座では、1曲演奏後、メンバーがズッコケて加藤が「バカみたい」と言い放って引っ込んだことはよく知られる。志村さんが付き人として加入するのは、この公演から約1年半後の68年。TBSの「8時だョ!全員集合」がスタートするのは、その翌年である。
低俗番組などと言われた「全員集合」だが、こどもたちに圧倒的に支持され、番組は最高視聴率50.5パーセント(ビデオリサーチ・関東地区)を記録。これは志村さんが荒井注さんに替わり、正式にドリフターズのメンバーとして番組の中で紹介される74年の前年(4月7日)の記録である。志村さん加入後、「東村山音頭」、「ヒゲダンス」など、新たな名ギャグが生まれ、「お化け番組」の歴史は続いたが、そのお化けの本当のすごさは、「公開生放送」にこだわり続けたことだ。
生放送で前半20分を超えるコントを見せるためには、緻密な構成とリハーサルが必須である。私はこの番組について取材をした際、スタート当初は視聴率が伸びず、ワンクール打ち切り説まで出ていたと聞いて驚いた。ほぼ開き直ったような形で、作家が書いたコントだけでなくドリフターズのメンバーが面白いと思うことを取り入れ、大規模なセットも組んで、まず会場のお客さんを笑わすことに専念したところ、視聴率がぐんぐん伸びたという。コントに対するいかりや長介さんのダメ出しの厳しさは有名だが、志村さんはテレビデビューする前からそういう笑いの作り方をずっと見てきたのだ。
「全員集合」はメンバー全員が舞台を走り回るスピード感があったし、生放送らしいハプニングやアドリブも数多い。志村さんが参加してから、特に増えたように思う。しっかり枠組みがある中での定番ギャグ、自由な動き、予想外の笑い。これがこどもを虜にしたのだった。
ザ・ドリフターズを離れ、自身の冠番組を持つ第二の顔の時代になっても、基本的な作り方はグループの時代とは変わらなかった。以前、志村さんがトーク番組に出演した際、近年のバラエティはひな壇の芸人によるトークが主流だが、自分はあくまで「ものを作っている」と語っていた。まさしく志村さんは「もの」を作っていた。
印象的だったのが、
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