福嶋聡(ふくしま・あきら) MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店
1959年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。1982年、ジュンク堂書店入社。サンパル店(神戸)、京都店、仙台店、池袋本店、難波店店長などを経て、現在、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店に勤務。著書に『希望の書店論』(人文書院)、『劇場としての書店』(新評論)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
ボランティア、傀儡政権、テクノ・ファシズム
『反日種族主義』の「ありがたい」解釈に、心地よくなってはならない
侵略戦争、植民地政策によって翻弄されたのは、侵略された側の人たちだけではない。侵略した側でも、徴兵された人々、勤労奉仕を強いられた人々、大陸に渡った開拓団等、国内外のボランティアに奉じた多くの人たちもまた、「救国」と「興亜」のスローガンの犠牲となった。『ボランティアとファシズム――自発性と社会貢献の近現代史』(池田浩士著、人文書院)は、関東大震災後の「東京帝大セツルメント」を嚆矢とする日本近代史におけるボランティア活動が、国家に利用されていくさまを、見事に描き出している。
ボランティアは、自発的な社会貢献である。ファシズムは、国家が意のままに個人を強制する体制である。この二つは、一見正反対の極にあるものと考えられる。だが実際は、戦前戦中期の日独のファシズム体制は、ボランティアと非常に親和的であった。
世界恐慌が日本経済、とりわけ農業を襲った時、ボランティアは国家に利用され始めた。現地の農業発展の礎たらんと「満蒙開拓団」に応募した移民たちは、「国境を外敵から身をもって防衛するという任務」(P208)を身に帯びていく。国内では、応召された労働者の穴を埋めるために、「勤労奉仕」が推奨→強制された。戦争末期に特攻を志願した兵士たちを含めて、「母国のために」という思いは、どこまでも「主体的」なものと自覚されていたはずだ。
“日本国家の海外進出と戦争は、巨大災害がさまざまなボランティア活動を生み出したように、多くのさまざまなボランティア活動を生んだ。これらの活動の原点にあった自発性こそが、国による制度化の契機であり基盤だったのである”(P139)
日本は、ファシズムがボランティアを取り込むシステムを、ナチスドイツに学んだ。ヒトラーは、徴兵やボランティアへの動員によって、見事に「失業対策」を完遂した。現在にも共通する社会問題への詭弁的でトリッキーな政策が、ドイツ国民にヒトラーを信奉させたのである。
“ドイツ国民は、その束縛を、嬉々として受け入れたのである”
大正の関東大震災、平成の阪神淡路、東日本大震災後のボランティア活動はすべて、被災者を助けたいという痛切な、主体的な思いから生まれた。池田は、あくまでボランティアは人間にとって大切で、社会にとって必要なことだという。そして、「偶然こそが主体性をつくり、養う」という指摘が新鮮で印象深い。だが一方で池田は、自分は正しい有意義な仕事をしているのだという確信が強ければ強いほど、現実が見えなくなるとも指摘する。
“正しいことをしているのだという感動的な思いが現実を見えなくさせる実例は、ドイツの「帝国労働奉仕」に従事する若者たちや、「国民勤労報告協力令」による「学校報国隊」の日本人生徒たちによっても、私たちに数多く残されています”(P389)
頻発する大災害のたびにボランティアの力を借り、それを今や憚ることも恥じることもない国家が、久しく前から大学の単位を餌に「ボランティア」(この段階ですでに言語矛盾である)を勧奨し、オリンピック開催のために「ボランティア」を奨励→強制する今日、権力が人間の「主体的な思い」をいかに利用しようとしているのかを見定めることが、だからとても重要なのだ。
日中戦争当時、「主体的な思い」を利用された人々も、自分たちが利用されているとは思わなかっただろうし、まして、他国侵略という悪事に加担しているという思いを持つ人もほとんどいなかっただろう。「アジアを西洋から守る」「一歩先んじて近代化した日本が、アジアの救世主となる」という「興亜」の大義を胸に海を渡った人たちは、自分たちの「正義」を決して疑わなかっただろう。そして、「正義」は、往々にして悪意よりも苛烈な暴力のもととなるのだ。
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