劇場、映画館は“パブリック”な場、民主主義に欠かせない
2020年04月18日
前稿で、新型コロナウィルス感染症の拡大と自粛要請を受けて、舞台芸術と映画が大打撃をこうむっている現実と、関係者らによる補償を求める運動を紹介しました。今回は、どうしてそうした補償がなされなければならないのかについて、私の考えを述べたいと思います。
補償を求める人たちには、〈自粛と補償はワンセット〉という意識があります。これは、より正確には、〈自粛の要請って、実際には「他粛」でしょ、だったら、あなたの要請で我慢しているのだから補償しなさいよ〉という、ある種の直観に支えられているといえそうです。
この「他粛」という発想に着目して、なぜ補償が必要なのかを考えたいと思います。
手がかりとして、憲法の考え方をまずは確認しておきたいと思います。
憲法29条3項は次のように定めています。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
この条文は、私有財産を公共の目的のために用いることができるとしていますが、同時に、損失補償が必要であるともうたっています。
損失補償とは、国家の適法な侵害に対して、公平負担の理念からその損失を補填することだと一般には解されています。そして、その損失が公平に反する場合、すなわち「特別の犠牲」だと評価されるような場合には、補償がなされなければならないと考えられています(補償と似て非なる言葉に賠償というものがあります。これは法律の世界では、適法な行為による損害を補填する場合に用いられる補償とは異なり、違法な行為による損害を補填する場合に用いられています)。
わかりやすくいうと、特定の人に対して、特別に財産上の犠牲を強いることになるような場合に、補償が必要だということになります。
そこで、今回の件についてですが、舞台芸術や映画館が大打撃を受けることになった発端は、「自粛要請」にあります。しばしば「自粛要請」と表記され、私たちもそれでなんとなくわかった気になってしまいがちですが、安倍首相は実際には何と言ったのか。いま一度確認しておきましょう。
「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請する」
「多数の方が集まるような……文化イベント等」「今後2週間」「中止、延期又は規模縮小等の対応を要請する」という点がポイントになりそうです。
舞台芸術にしても映画館での上映にしても、「多数の方が集まる」「文化イベント」に該当することは、おそらく争いがないと思います。そうしたイベントの主催者に対して「対応を要請」しているのですから、それらの主催者が「特定の人」であることも明らかです。
さらに、「中止」は、主催者にとっては経済的な利益を得られなくなる重大な事態ですし、それは主催者自らの原因で招いたわけでもありませんから、特別に財産上の犠牲を強いるものということができます。
他方で、「自粛要請」は強制力を伴うものでなく、したがって中止はあくまでも自己責任であって、補償は必要ないという立場もあります。
しかし、今回の事態に際しては、中止か否かの判断をめぐって、自由な意思決定がなされたとは評価できないと思います。補償を不要だとする意見は、実態をみない、実態を知らない考え方といえるでしょう。
以上のことから、補償を求めることは、決して非常識な要求ではなく、憲法に照らしても根拠を有するものということができます。
戦後の日本は、「文化国家」を標榜してきました。そのことは、法律の世界でもいろいろな形で示されています。
たとえば、文化芸術基本法の前文は、文化芸術の価値を多角的に表現し、その意義をうたっています。
文化芸術を創造し、享受し、文化的な環境の中で生きる喜びを見出すことは、人々の変わらない願いである。また、文化芸術は、人々の創造性をはぐくみ、その表現力を高めるとともに、人々の心のつながりや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し、多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するものであり、世界の平和に寄与するものである。更に、文化芸術は、それ自体が固有の意義と価値を有するとともに、それぞれの国やそれぞれの時代における国民共通のよりどころとして重要な意味を持ち、国際化が進展する中にあって、自己認識の基点となり、文化的な伝統を尊重する心を育てるものである
また、教育基本法の前文にはこうあります。
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