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政治は詩に似ているか

 『遠くまで行くんだ…』は小野田襄二を中心とする数人のグループによって1968年10月30日に創刊された思想誌である。その号は、野口成郎の序詩「知られざる人々へ」を冒頭に掲げ、小野田の「倫理的、あまりに倫理的な――日本的党の倫理性の崩壊」、新木正人の「更科日記の少女――日本浪漫派についての試論(一)」、重尾隆四の「フランス『五月革命』の拡散と進行」などを収録している。

『遠くまで行くんだ…』完全復刻版拡大『遠くまで行くんだ…全6号(1968~1974)完全覆刻』(白順社)
 革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)の政治局員だった小野田は、1967年の10・8羽田闘争の後に同派を離れ、共に離れた活動家たちと『遠くまで行くんだ…』を創刊した。刊行の趣旨は、「戦後を破壊せよ。戦後の情況を破壊せよ」というアジテーションに集約されているが、その本音は「全力量をふりしぼって日本の旧来からの政治思想・政治党派を倒さねばならない」という決意表明に表われている(「われわれの闘いの出発にあたって」、創刊号所収)。小野田たちが意図していたのは、誌名から推測される文芸的表現の場ではなく、新たな政治党派の建設だった。

 しかし、誌名はその意図をあえて裏切っている。「遠くまで」は古くさい革命政治のやり口からわが身を引き離すための警句にも聞こえるが、その潔癖主義から匂ってくるのは、間違いなく詩的言語への強い傾倒である。

 誌名のアイデアは、吉本隆明の詩「涙が涸れる」に由来している。小野田はそのことに誌面で触れていないが、ほとんどの読者は事情を了解していた。1960年代に学生運動を体験した者にとって、これほど舌に馴染んだ詩は他になかったからだ。

しめつぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とほり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしてゐる
胸のあひだからは 涙のかはりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらはれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』、1968)

 新左翼の中でも一番野暮ったく一徹な(くそまじめな)中核派を離脱した幹部が、吉本の詩句を思わせる誌名を選ぶこと自体がセンセーショナルだった。原理主義的なマルクス・レーニン主義を標榜する党派の人間が、既存の党派や前衛を「擬制」と切って捨て、一人ひとりの「自立」を訴える吉本の側に“寝返った”ように映ったからだ。

 また運動に飛び込みたいが、党派には距離感を持つ多くの学生は、小野田たちに強いシンパシーを抱いた。なぜなら彼らの行動は、党派に入らなくても自らの裁量で政治活動を続けることの可能性も指し示したからだ。

 ときはちょうど「三派全学連」から「全共闘」へ、学生運動の主人公が入れ替わる時期でもあった。党派からの「自立」は、活動家のみならず、周囲にいた多くの潜在的活動家にも新鮮な驚きを与えたのである。絓秀実によれば、創刊号は、初刷りの2000部を売り切って2000部を増刷し、第2号以後は3000部刷ってほぼ完売したという(『遠くまで行くんだ…』完全復刻版解説、2007)。この雑誌は当時もっとも成功したリトルマガジンだったのである。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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