【18】園まり「夢は夜ひらく」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」
2020年05月16日
前回、前々回と、「檻の中」から生まれた「練鑑ブルース」を取り上げたが、実は同じような出自をもつ唄がもう一曲ある。
「練鑑ブルース」は、前述したように、「檻の中」で〝詠み人知らず〟として生まれ、「檻の外」へ出ようとしたところを大人たちによって「檻の中」に封印されたが、もう一つは、「檻の外」へ出ることにまんまと成功、しかも多くの人々に、「檻の中」育ちであることに気づかれずにいまもうたい継がれている。
その唄とは、「夢は夜ひらく」である。そして、この唄もまた、謎にみち数奇な運命をたどったという点では、「練鑑ブルース」にけっして引けをとらないどころか、それ以上かもしれない。
私が「夢は夜ひらく」に初めて出会ったのは、大学2年の1966(昭和41)年9月、園まりの唄によってである。
♪雨がふるから逢えないの・・・濡れてみたいわ二人なら・・・
歌詞は明らかに〝艶歌調〟。歌い手に起用された園まりは、甘えるようなうたいぶりでも、また外見でも、伊東ゆかり、中尾ミエの三人娘の中では抜きんでて艶っぽく、当時の若者たちの〝オナペット〟だった。若者たちの間では、エンディングの「♪夢は夜ひらく」の「夢」を女性器に替えてうたわれ、瞬く間にヒットチャートを駆け上った。
ところが、その4年後、藤圭子という市松人形のような少女が、メロディはそのままに、
♪十五、十六、十七と私の人生暗かった・・・
と、容姿とは似ても似つかないドスの効いた声でうたい放ったとたん、この唄は〝艶歌〟から〝怨歌〟へと180度の変態を遂げ、まったくの別物となった。
園まりのうたう「夢」は「男女の愛の営み」だったが、藤圭子のそれは、眠れぬ夜に襲ってくる悲惨で非情な「悪夢」である。いや、所詮この世では「夢」など叶うはずがないという「反語」であった。
それは若者たちのルサンチマンを大いにくすぐり、またたく間に4年前の「園まり版」をはるかにしのぐミリオセラーになった。一部マスコミで、この唄は「檻の中の生まれ」であると明かされたが、薄倖な新人歌手の人生をなぞったものだと勝手に解釈した若者たちは、むしろ「さもありなん」と納得した。
9年がたち、「夢は夜ひらく」で一躍スターダムにのし上がったわが藤圭子は「夢がひらく」途中で突然引退して渡米。それから19年、1998年、宇多田ヒカルという愛娘をブレイクさせ、母の夢はニューヨークでひらいたかに見えたが、15年後の2013年8月22日、突然、謎の自死を遂げた
以来、「夢は夜ひらく」をめぐっては、私の胸中に多くの謎がずっとわだかまっている。
改めて調べはじめると、さらに謎が謎を呼び、私自身もその謎のなかで「ウソをマコト」と信じていたことが少なからずあることに気づかされた。
いまや関係者のほとんどが鬼籍に入り、物証や証言も失われ、さながら「迷宮入り事件」だが、今回はその「再捜査」に挑戦してみたい。
歌:「夢は夜ひらく」
園まり、作詞:中村泰士/富田清吾、採譜・補曲:中村泰士
時:1966(昭和41年)
歌:「圭子の夢は夜ひらく」
藤圭子、作詞:石坂まさを、作曲:曽根幸明
時:1970(昭和45年)
場所:東京都練馬区(東京少年鑑別所)
まずは「夢は夜ひらく」の謎の中でも源流ともいうべき「出自にまつわる謎」を検証しよう。
作曲者とされるのは、この唄がきっかけとなって歌謡界で活躍し「大御所」となる曽根幸明(1933〜2017)である。父親はNHK交響楽団の前身「東京放送交響楽団」のバイオリニスト、母親はピアニストという音楽一家に育つが、終戦直後の混乱期に両親と生き別れ、「反社会勢力」の一員となり、「進駐軍基地の爆破」「郵便局の金庫強盗」「真鍮製スクリュー強奪」などの悪事を重ね、練馬区の東京少年鑑別所送りに。そこで「夢は夜ひらく」を誕生させる経緯を、自伝で次のように
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