【19】園まり「夢は夜ひらく」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」
2020年05月17日
前回では「夢は夜ひらく」をめぐる主要プレイヤーたちの役まわりの「実態」を検証したが、さらに詮索をつづけても、おそらく「藪の中」なので、別の角度から捜査を先へ進めよう。
次なる検証テーマは、なぜ園まりの〝艶歌〟が藤圭子の〝怨歌〟へと大変態し、戦後音楽業界の一大伝説となったのか、である。
●プロデューサーである石坂まさをの粘着力
●藤圭子の自己演出力
●時代との親和力
まずは、石坂の粘着力から検証にかかろう。
それは何とも桁外れでなりふり構わぬものだった。すでに園まりが大ヒットを飛ばしているなか、わずか4年たらずで、同工異曲の楽曲をリリースするというのは、そもそも業界の常識破りである。それができたのは、石坂の過剰なまでの思い込みによる。前掲の自叙伝によれば、石坂は「自分がプロデュースした手ごたえから、藤圭子が歌えばかならずヒットに結びつくと、確信をもっていた」。
少女時代から住み込みで歌手をめざして特訓をうけ、最も身近で石坂を知る藤圭子は、石坂の思い込みの源をこう証言している。
「園まりさんの〈夢は夜ひらく〉が作られたときに、沢ノ井さん(石坂の本名)も少し噛んでたのかな。それで、出来上がったのを聞いて、こんなもんじゃない、これは本当の〈夢は夜ひらく〉じゃない、いつか自分が本当の〈夢は夜ひらく〉を作ってやるんだって、そう思いつづけてきたんだって」(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社、2013)
元々作詞家だった石坂は園まり版の歌詞を自ら書き替えると、タイトルの「夢は夜ひらく」の頭に「圭子の」を加えて、レコード会社に持ち込んだ。半年前に「新宿の女」でデビューしたばかりで、当然ながらレコード会社は発売をしぶった。
だが、そこで諦める石坂ではない。最初のアルバム「新宿の女/演歌の星 藤圭子のすべて」のB面の1曲目に、抜け目なく入れ込んだ。
すると思わぬところからエールがもたらされた。たまたまそれを聞いた五木寛之が、
<ここにあるのは、「演歌」でも「援歌」でもない。これは正真正銘の「怨歌」である>
と書いてくれたのである。
これでレコード会社は重い腰をあげ、1970(昭和40)年4月、LPからシングルカットされ、急遽発売されることになった。石坂の粘り勝ちであった。
「光のプレゼント このレコードの収益は恵まれない人々の施設へ贈られます」とジャケットに銘うたれたシングル盤は、いきなりオリコンのヒットチャートの1位に踊り出る。これにひっぱられてデビュー曲の「新宿の女」も2位に急浮上。以来、この「ワンツーコンビ独占」はなんと40週も続き、日本歌謡界史上の伝説的事件となった。
すでにこの石坂の粘着力は、デビュー曲「新宿の女」の時以来、なりふり構わぬ「営業」で発揮されていた。レコード店はもちろん美容院、喫茶店、バーと圭子を連れまわして歌わせる。話題づくりに圭子を銭湯の男湯へ飛び込ませる。違法を承知でポスターを町中にはりまくる。石坂は石坂で、芸能雑誌社に押しかけると、癲癇を装って口から泡をふき、記事にしないとここで死ぬと半ば脅迫する。ついには「きちがい龍二(石坂の本名は澤ノ井龍二)」の異名まで頂戴する。さながら「巨人の星」をめざす星一徹と飛雄馬親子である。
そのかいあって、「圭子の夢は夜ひらく」はミリオンセラーとなり、ついに念願の紅白出場をはたすのだが、実は、この唄の1番「赤く咲くのは芥子の花/白く咲くのは百合の花」は、「なんとしても赤い花と白い花を咲かすんだ」――つまり〝紅白狙い〟を念じたものだったことを前掲の石坂の自叙伝で初めて知った。いやはや、そこまでやるか! 石坂の粘着力や恐るべし、である。
歌:「夢は夜ひらく」
園まり、作詞:中村泰士/富田清吾、採譜・補曲:中村泰士
時:1966(昭和41年)
歌:「圭子の夢は夜ひらく」
藤圭子、作詞:石坂まさを、作曲:曽根幸明
時:1970(昭和45年)
場所:東京都練馬区(東京少年鑑別所)
しかしながら、戦後音楽史の伝説を生むには、いかに桁外れであっても、一人の熱血マネージャー兼プロデューサーの粘着力だけでは十分ではない。石坂の過剰な粘着力に応えた藤圭子の自己演出力もまた
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