メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

13年前の5月、師匠が突然逝った日

事故で世を去った玉川福太郎を思う(上)

玉川奈々福 浪曲師

記憶をたどり、時をさかのぼる

浪曲界を代表する存在だった玉川福太郎さん。豪快な節回しとたんかに加え、愛敬もある正統派の芸で幅広い人気を集めた。61歳で亡くなった=森幸一撮影
 緊急事態宣言下。相変わらず、公演はひとつもありません。

 経済的には大変だけれど、こんなに時間があるときは、今までなかった。今こそ、たくさん本を読み、稽古をし、新作をつくり……と、思うのだけれど。目先に目標がないので、なかなかモチベーションが保てません。

 つい、物思いにふけってしまいます。

 風薫る五月。いい季節ですが、私にとっては切ない季節でもあります。

 師匠・玉川福太郎に入門して、25年になります。入門して12年経ったとき、師匠が急逝しました。

 2007年5月のこと。

 あまりに急に亡くなったので、それはどこか私の傷になっているのでしょう。今まで、師匠の死については、ちゃんと書いてきませんでした。亡くなった当時のメモが、手元に残っているだけです。

 いま、動きがない、動きようがない、こんなときだからこそ、覚えていることを、きちんと記録しておこうと思います。皆様に伝える、というより、自分自身のための記録として。だから、ですます調ではなく、覚書的な書き方になりますが、お許しください。

 長いので、前・後編にしました。後編は次回、掲載させていただきます。

 13年前。記憶を、時をさかのぼります。

豊子師匠からの急報、「アンタ大変だ」

 2007年5月23日。

 お昼ごろ携帯が鳴った。いつも私を弾いてくれている、曲師(浪曲三味線)の、沢村豊子師匠からだった。

 「アンタ大変だ、アンタの師匠があぶない!」

 何を言われているのかわからない。

 豊子師匠も慌てていたのだろう、いつにも増して話の順番がめちゃくちゃだ。

 よく聞くと、師匠・福太郎が故郷の山形県酒田で農作業中、事故にあって、病院に担ぎ込まれたという。田植え機の下敷きになったのだという。

 ……いったいどういうことか、そういわれてもわからない。

 とにかく、行かなければ。行かなければと思った。

 豊子師匠から病院名を聞きだして、私はすぐに向かいます、と伝える。

 早々に電話を切ると、膨大な数の着信履歴が残っているのに気づく。すべて公衆電話からだ。

 イヤな予感。

・・・ログインして読む
(残り:約5410文字/本文:約6378文字)