事故で世を去った玉川福太郎を思う(上)
2020年05月16日
経済的には大変だけれど、こんなに時間があるときは、今までなかった。今こそ、たくさん本を読み、稽古をし、新作をつくり……と、思うのだけれど。目先に目標がないので、なかなかモチベーションが保てません。
つい、物思いにふけってしまいます。
風薫る五月。いい季節ですが、私にとっては切ない季節でもあります。
師匠・玉川福太郎に入門して、25年になります。入門して12年経ったとき、師匠が急逝しました。
2007年5月のこと。
あまりに急に亡くなったので、それはどこか私の傷になっているのでしょう。今まで、師匠の死については、ちゃんと書いてきませんでした。亡くなった当時のメモが、手元に残っているだけです。
いま、動きがない、動きようがない、こんなときだからこそ、覚えていることを、きちんと記録しておこうと思います。皆様に伝える、というより、自分自身のための記録として。だから、ですます調ではなく、覚書的な書き方になりますが、お許しください。
長いので、前・後編にしました。後編は次回、掲載させていただきます。
13年前。記憶を、時をさかのぼります。
2007年5月23日。
お昼ごろ携帯が鳴った。いつも私を弾いてくれている、曲師(浪曲三味線)の、沢村豊子師匠からだった。
「アンタ大変だ、アンタの師匠があぶない!」
何を言われているのかわからない。
豊子師匠も慌てていたのだろう、いつにも増して話の順番がめちゃくちゃだ。
よく聞くと、師匠・福太郎が故郷の山形県酒田で農作業中、事故にあって、病院に担ぎ込まれたという。田植え機の下敷きになったのだという。
……いったいどういうことか、そういわれてもわからない。
とにかく、行かなければ。行かなければと思った。
豊子師匠から病院名を聞きだして、私はすぐに向かいます、と伝える。
早々に電話を切ると、膨大な数の着信履歴が残っているのに気づく。すべて公衆電話からだ。
イヤな予感。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください