カミュの『ペスト』を読む(1)――コロナ危機の驚くべき予言の書
藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師
法的手続きに固執する医師、危機感の欠けた当局
まずは、オラン市の医師会会長、リシャールのセリフ。有力者の彼は、ペストの発生期にその感染の脅威を訴える医師リウーにこう言う――「この病を終息させるためには、もしそれが自然に終息しないとしたら、はっきり法律によって規定された重大な予防措置を適応しなければならぬ。そうするためには、それがペストであることを公(おおやけ)に確認する必要がある。ところが、この点に関して確実性は必ずしも十分ではないし、したがって慎重考慮を要する……」(『ペスト』宮崎嶺雄・訳、新潮社、1969、74頁、以下の引用も同書による)。
発生した病気がペストであることに気づきながらも、それを公言しようとしないリシャールは、ぐずぐずと回りくどい、優柔不断さと抜け目のない慎重さを交ぜたような言いまわしをする。なんとも今日的な光景だ。
このリシャールの、現実を直視せずに、法的な手続きに固執する言葉に対し、リウーは、それは問題の設定が間違っている、重要なのは市民の半数が死ぬことを防ぐための措置であり、もはや時間との競争の時期が来ているという意味の、的確な言葉を返す(75頁)。その直後に挿入される、「揚げ油と小便のにおいのする場末の町で、鼠蹊部(そけいぶ)は血みどろになり、死のうめきをあげている一人の女が、彼〔リウー〕のほうへ身を向けていた」という場面が、ペストの恐るべき脅威を強烈に印象づける(76頁)。

1348年、イタリア・フィレンツェで流行したペストの様子。ボッカッチョ『デカメロン』の挿絵=英ウェルカム・コレクションから
また、同時期に当局が市中に貼り出したビラの文面も、
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