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【5】教室とパンとサーカス

民主主義からのエクソダスの波に教室や書店はどこまで説得力ある防波堤になれるのか

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

 福嶋様

 第四信、どうもありがとうございました。

 大きな宿題をいただきました、弁証法。もちろん福嶋さんも、「ひそかに」、「少し古びた言葉を使って」と断りをつけておられるように、かつてこの言葉が持っていた(持たされていた?)全知全能のマジックワード的な罠を意識してのことであると思います。

教室と書店の弁証法的力学

拡大TeacherKarla / Shutterstock.com

 教師と学生、売り手と買い手の「大いなる非対称性」から始まらざるをえない教室や書店という空間では、まさにその非対称性をエネルギーとして、「学び」というダイナミックな力が生み出されるのですから、僕たちの現場であるこれらの空間で「弁証法的」な力学が働いていることは確かだと思うのです。

 しかし、僕は福嶋さんの「断り」を少し硬質にして、「条件」を付けたいと思うのです。その理由は、「弁証法」という言葉がどうしても醸し出してしまう、「合」、完成形、正しい答え、あるべき方向、そこでオチがついてしまう完結性からできるだけ距離を取りたいと思うからです。

 第3信でお話したように、毎回毎回授業のたびに「不足」と「過剰」が残る。オチなどつかないのですね。統一され内側で充足する達成がないからこそ「旅」ができると書きました。ですからその代わりに、永遠の未達成感と付き合うことになるんです。袋は閉じられず、開きっぱなし、漏れっぱなしです。

 前回の応答のなかで、民主主義とはいかに困難なものかという話題になりましたね。民主主義とは、「『みんなが賢くなる』という困難な課題を、おそらく無意識にではあれ、前提にしているのであり、選び取っている」と福嶋さんは書かれました。為政者ではなく、主権者こそしんどいのが民主主義だと。だからそれを選び取った限りは、「一人ひとりにその覚悟を促し、覚悟の実践を担保する知識と思考能力を与えることこそ、教育の大きな役割、あるいは役割のすべてと言って良いかもしれません」とおっしゃられていました。

 僕が教育の現場でしていることは、この「覚悟の実践を担保する知識と思考能力を与えること」であればよい、あってほしいと心から思います。為政者、国家、社会の権力と折衝しながら生き残る技術、それもできるだけ自在に生き、やがて死んでいくための過程を可能にする「知識と思考能力」を培ってくれれば、民主主義の担い手を育てたことになるのかもしれませんね。

 そんな大それたことを実現できるかどうかは問題ではなく、それを目指して日々励むことですよと、福嶋さんはおっしゃられるかもしれません。そうなんです。そんな、ある意味立派な、きちんとした民主主義の主体、主権者として意思表示できる、そんな自分をきちんと見つめ直して反省までできてしまう主体を、どの個人にどう呼びかければ育てることができるのか、僕にはわからないのです。

 僕は聞き分けも往生際も悪いので、自分が己のなすところを知る主体かどうか、そもそもそんなまっとうな「市民」であるのかさえ疑わしい。教室は失敗の宝庫です。矛盾は解消しないし、一つの矛盾を通してしか見えないまた別の矛盾にあふれています。同じように、民主主義も失敗だらけの歴史しかありません。

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筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

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