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コロナ禍の今「パンデミック文学」の古典を読む(下)

『ペストの記憶』『白の闇』「流行感冒」

駒井 稔 編集者

 前回に引き続き、世界文学における疫病をテーマとした優れた古典作品を紹介しましょう。

 誰もが知っている『ロビンソン・クルーソー』がイギリス文学史上、初めての小説であることをご存じですか。作者のダニエル・デフォーが59歳の時に初めて書いた小説です。『ペストの記憶』(武田将明訳、研究社)は、1722年、デフォーが62歳の時に刊行されています。ロンドンをペストが襲ったのは1665年。デフォーは当時5歳です。

 これは創作といえば、そうなのですが、当時の公的文書や記録を基に再現された克明な描写や細かな数字など、ルポルタージュの体裁を備えているので、うっかりすると、これはデフォー自身が見聞したことかと錯覚してしまいます。この作品には語り手がいて、一人称で物語は進んでいきます。毎週増えていく死亡報告が数字として残されていますので、まるで小池都知事の会見を見ているような気分にもなってきます。

vectorpouch/Shutterstock.com拡大ロンドンのペスト禍を描いたイラスト=vectorpouch/Shutterstock.com

 ペストの流行に対して、ロンドン市長と区長が定めた条例が引用されていますが、患者の隔離やその家屋の閉鎖についての条例は今日でもほとんどそのまま通用する部分が多いのにも驚きます。特に芝居、宴会、店での飲酒を禁じる条例を読むと、ちょうど自粛を要請されている我が国の現状を思い浮かべない人はいないでしょう。ペストに感染していることに気づかず、突然路上でバッタリ倒れて死ぬ人がたくさんいたことも他人事として読むことができません。そしてこの恐るべき状況下でも、盗みなどの悪事を働く人間たちはいたのです。

 ロンドンでは、8月22日から9月26日までのたった5週間でペストを中心とした死者が4万人に達しました。死亡週報に載った週単位の細かい数字も挙げられています。それにしても17世紀にこれほど克明な記録が取られていたことは、驚異としか言いようがありません。やがてペストの終焉を友人のヒース博士が告げます。9月の最終週に死者が2000人減少したこと。発病後に2、3日で死んでいた患者が8日から10日は生存するようになり、5人に1人しか回復しなかったのが、5人に2人も亡くならない。

 「まあ、見ていてください、わたしの言ったとおり、次の死亡週報の数字は下がるでしょうし、前よりも多くの人たちが恢復するようになりますよ」

 このヒース博士の言葉は、カミュの『ペスト』におけるパンデミックの終焉と同じ印象を与えます。その言葉通りペストは終息に向かいますが、ロンドンを襲った疫病が奪った命は10万。この物語はH・Fという署名で終わります。もちろんデフォーの名ではありませんが、これは想像力が豊かな人間が書いた架空の物語ではないことはお分かりいただけるでしょう。

 訳者の武田さんは解説で次のように述べています。

 「一七二二年という、まだ世界が近代に入り始めたばかりの時期、アメリカ独立もフランス革命も経験していなかった時代に、すでに市民が市民を管理するという自律的な権力の抱え得る問題点を理解し、ペストという壊滅的な危機を媒介にして、その光と闇を描き切った点にこそ、本書の普遍的な価値があるのだ」

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筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。