メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

コロナ禍の今「パンデミック文学」の古典を読む(下)

『ペストの記憶』『白の闇』「流行感冒」

駒井 稔 編集者

感染症というメタファーを使った傑作『白の闇』

 ポルトガル文学からも1冊ご紹介しましょう。コロナが騒がれ始めてから、この『白の闇』(雨沢泰訳、河出文庫)に言及する記述を見ることが多くなりました。ジョゼ・サラマーゴという作家が書いた長編小説です。

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(雨沢泰訳、河出文庫)拡大ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(雨沢泰訳、河出文庫)
 ある日、自分の車で信号待ちをしていた一人の男が、突然目が見えなくなります。失明した男を家まで送り届けた男は車を盗みますが、車を止めて歩き出した途端に自らも失明します。眼前にミルク色の海、まさに『白の闇』が広がるのです。最初に失明した男が妻と共に眼科を訪れますが、原因は分かりません。男の目は医学的には正常なのです。やがて診察した医者も失明し、待合室にいた若い女性や少年も次々と感染して失明します。

 大臣の決断で、治療法が見つかるまで、そしてワクチンが開発されるまでは、感染した人間を隔離することが決められます。もし伝染病であるならこれから拡大していくことは間違いない。空っぽの病院に失明した医者とその妻、最初に失明した男、医院の待合室にいた娘と少年と車を盗んだ男の6人が送られます。突然盲目になった彼らにはトイレに行くことすら大仕事です。

 さらに最初に入れられた6人と接触があった人々が運ばれて同部屋に収容されます。それから軍隊に監視される生活が始まりますが、実はその中にたった一人目が見えている人間がいました。医者の妻です。彼女はすべてをその目で見て、夫に報告をします。飢えと恐怖に満ちた収容所生活は壮絶の一語に尽きます。

 やがて収容所はごろつきたちに支配されるようになり、食料のために女性を差し出すというところまで追い詰められますが、火事が起こり、一同は逃亡に成功します。

 街に戻った医者のグループは、目の見える妻のお陰で何とか生活をしていくことができました。といっても食料を手に入れるだけでも大変ですし、自分が住んでいた家に戻りたいと考えても、すでにそこは廃墟のようになっていて、街には失明した人間が溢れています。皆で訪れた医者の家には少し食料がありました。残っていた本物の飲料水を飲んだ時、感動のあまり人々は泣き出します。エンディングはこの小説にふさわしい見事な終わり方をしますが、あえて触れないでおきましょう。

 この作家の文体は独特で会話のカギ括弧を一切使いません。ですから改行もほとんどないので、慣れるまでは読みにくいかもしれませんが、物語に引き込まれると、最後は全く気にならなくなります。しかも登場人物には一切名前がありません。

 感染症というメタファーを使いながら、独自の文学的な世界を構築した手腕は見事です。サラマーゴは1998年、ポルトガル語圏では初めてのノーベル文学賞を受賞しました。訳者あとがきにもあるようにウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』を彷彿とさせる傑作だと思います。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです