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夏目漱石と感染症の時代

『吾輩』の主人・苦沙弥先生はなぜ「あばた面」だったか

小森陽一 東京大学名誉教授(日本近代文学)

感染症と戦争による人間の地球規模の移動は不可分だった

 苦沙弥の顔の「痘痕」を、漱石のそれと重ねると、種痘の失敗に行きつくのだが、種痘法の発見者は彼の留学先であった大英帝国の医師エドワード・ジェンナーで、1796年に牛痘にかかった女性の痘疹の材料を別な少年に接種し、後人間の痘瘡を植えても発症しなかったことをもとに、1798年に論文として発表した。この発明が、人類の歴史における「ワクチン」による感染症予防と免疫についての、現在にいたる医学的知見の出発点になっている。

拡大夏目漱石

 ロンドンの金之助は、自分の「痘痕面」周囲のイギリス人の注意を引いていることを、強く気にしていた。『吾輩は猫である』第1回と同じ時期に「帝国文学」に掲載した『倫敦塔』(1905.1)で、漱石は「銀の留め金にて飾れる靴の爪先を、軽げに石段の上に移すのはローリーか」と、エリザベス1世の寵愛を受けたサー・ウォルター・ローリーを登場させている。彼が防衛委員だった1588年、スペインのアルマダで無敵艦隊を打ち破り、イギリス艦隊は「七つの海」を支配するにいたる。新大陸の発見後のスペインの制海権は一気に失墜した。

 アメリカ大陸にはスペイン人の侵略以前に「痘瘡」は無く、先住民に免疫が無かったため、接触後大流行となり、「人口」が急減した。「人口」が増えたのは、アメリカ大陸やオーストラリア大陸を、「新大陸」と勝手に名付けて、ヨーロッパ大陸から移住した「人間」なのだ。元々そこに暮らしていた先住民の人々は、移民が持ち込んだ感染症によって、命を奪われていった。大幅に「人口」を減らしていった。

 「吾輩」の言う「医学上の統計」とはヨーロッパで19世紀に確立した統計学の帰結でしかない。そこで異族である先住民が、数えられることはなかった。

 第一章で「吾輩」は、「我ら猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と闘ってこれを剿滅せねばならぬ」と言った「白君」に「尤もの議論」と同意している。「猫族」と「人間」族は厳しい闘争関係にあるのだ。肌の色による人間間の差別をヨーロッパの〝白人〟が始めたのが「新大陸」発見後の大航海時代。球形型の惑星に生きていることを多くの人が知り、「地球」という認識が成立する。

 先の引用に続けて「吾輩」は「現今地球上にあばたっ面を有して生息している人間は何人位あるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたつた一人である。しかしてその一人が即ち主人である。「地球」のレベルで感染症の実態を考えようとする「吾輩」の認識は正鵠を射ている。感染症は侵略戦争による人間の地球規模の移動と不可分なのである。

 「吾輩」は苦沙弥が子どもの頃に種痘に失敗したことも、どこかから伝え聞いて知っている。「これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思つたのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである」、「痒い痒いといいながらむやみに顔中引き搔いたのだそうだ」。

 この猫の記憶は、九年後の自伝的小説『道草』の叙述と正確に対応している。

 「大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだという話であつた。彼は暗い檽子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず搔き挘って泣き叫んだ」という叙述は、主人が忘れていた子ども時代の記憶を、周囲の大人が、後になって、予防接種としての「種痘」が「本疱瘡」を発症させてしまった経緯を語り聴かせたことを明らかにしている。

 倫敦に留学した金之助は、「痘痕」のある自分の顔を、イギリス人が不審気に見ると、妻への手紙で報告している。そして乗り合いの交通機関の中で、「痘痕」のあるロンドン子を発見したと、鬼の首でもとったかのように手紙に書きつけている。

 そうした漱石自身の「痘痕」へのこだわりを知っていると、「洋行帰りの友人」に苦沙弥が「西洋人にあばたがあるか」とたずね、「まあ滅多にないね」と応じられ、「少しはあるかい」と「念を入れ」たエピソードは胸に響く。友人は「あつても乞食か立ん坊だよ」と応じる。イギリスにおける「あばた」の日本人は最下層階級なのである。感染症が階級問題であることは、今も日々明らかになっている。

 新型コロナウイルス(COVID19)による今回のような世界規模の感染症の広がりは、「日英同盟」が結ばれた20世紀に入ってから、繰り返し人類を襲うことになっていく。

 アメリカ合衆国から第一次世界大戦の最中に一気に世界中に広がった新型インフルエンザの感染拡大は戦争当事国では秘匿された。覇権を失い、中立国になっていたスペインだけが報道し、日本では「スペイン風邪」という二重三重に誤った命名が流通させられた。漱石は既に没していたが、彼の小説には「インスルエンサ」や「チフス」が繰り返し現象する。今、読み返す時だと思う。

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筆者

小森陽一

小森陽一(こもり・よういち) 東京大学名誉教授(日本近代文学)

1953年、東京都生まれ。北海道大学大学院文学研究科修士課程修了。成城大学助教授などを経て東京大学総合文化研究科享受。「九条の会」事務局長。著書に『文体としての物語・増補版』(青弓社)、『13歳からの夏目漱石』(かもがわ出版)、『漱石を読みなおす』『漱石論』『ポストコロニアル』(いずれも岩波書店)、『村上春樹論』(平凡社)、共著に『戦後日本は戦争をしてきた』(角川書店)、『泥沼はどこだ』、編著に『3・11を生きのびる』『沖縄とヤマト』(ともにかもがわ出版)、共編著に『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』(青弓社)など多数。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです