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日常を見直す。精神の「インフラ」である劇場から

コロナ禍での公演中止を超えて

白井晃 演出家・俳優・KAAT神奈川芸術劇場芸術監督

ずたずたに引き裂かれた観客と劇場

KAAT神奈川芸術劇場で2020年1~2月に上演された『アルトゥロ・ウイの興隆』。ナチスの台頭をギャングの世界に置き換えたブレヒトの音楽劇を白井晃が演出、草彅剛が主演した=細野晋司撮影

 2月の下旬に、新型コロナウィルス感染拡大が大きな社会問題となってから3カ月、私たち舞台芸術に関わる人間にとっては、本当に悪夢のような日々が続きました。そして、この危機をどのように抜け出すかという意味では、この悪夢は今もなお続いています。5月後半現在、私が考えているのは、この3カ月の間にずたずたになってしまった観客と劇場との信頼関係を、いかにして取り戻すかということです。

 演劇、ダンス、音楽など、劇場文化と言われる表現芸術は、今回の新型コロナウィルス感染禍によって、壊滅的な打撃を受けました。「三密」という言葉が生まれ、劇場はまさに密閉、密集、密接、の対象として取り上げられ、舞台芸術の唯一無二の原則である「同時性」が根こそぎ奪われてしまったからです。

 「同時性」というのは、表現者と観客が同じ時間に、同じ場所で「場と時間」を共有するという意味で私たちがよく使う表現です。

 インターネットが発達した便利な現代社会においても、これが舞台芸術にとって最後の牙城でした。たとえ様々な表現がネットで見ることができるようになったとしても、時間を作ってわざわざ会場に足を運び、自分の身で体感して得るものは、それには代え難いものがあるはずです。私は、この行為は自分自身を構築するものだと信じて疑いません。

舞台芸術の「同時性」が一気に壊れた

KAAT神奈川芸術劇場で2019年4月に上演された『春のめざめ』。思春期の少年少女の心身の揺れを描いた19世紀ドイツの戯曲が白井晃演出によって、みずみずしい現代の舞台になった=宮川舞子撮影

 劇場で観る作品に共感したり、感動したり、笑ったり、泣いたり、たとえ、その作品に嫌悪を抱いたとしても、自分が時間を作って劇場まで足を運んで獲得した感覚は、PCの画面の中で感じるものとは大きく違うと思います。

 「この表現に感動した」「この表現は嫌いであった」どちらでも良いのです。それを積み重ねることで、人々は自分の感性を作ることができ、自己を形成することができるのだと思っています。

 また、表現者においても同じことが言えます。

 どんなに構想を練り、リハーサルを重ねたとしも、観客の前に立ち、その呼吸を感じることで自分の表現を高めることができます。俳優も、ダンサーも音楽家も、全ての表現者がそうだと思います。好意的な観客の空気ばかりでなく、批判的な空気を感じたとしても、客観的な観客の視線を糧に、表現は一気に膨らみ上昇します。

 その舞台芸術の最大の特徴である「同時性」が一気に壊滅状態に陥りました。いや、全滅と言っても良いと思います。思い出すのは、東日本大震災の折に、津波によって東北の多くの市町村が壊滅状態に陥った時のことです。あっという間に襲ってきた津波によって、人々は、ただなす術もなく高台に逃げるしかありませんでした。今、私たちの置かれているのは、まさにこの状態です。見えない津波によって劇場は閉じられ、人々が集まることが禁じられました。上演中の全ての公演はストップし、初日に向けてリハーサルをしていた作品も中断を余儀なくされました。

「不安」に飲み込まれた劇場で

『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド~汚れなき瞳~』の舞台。『CATS』などで知られる作曲家A・ロイド=ウェバーが手掛けたミュージカルの日本初演で、三浦春馬、生田絵梨花らが出演。チケット入手が困難な人気作だったが公演途中で閉幕した=写真提供:東宝演劇部

 今回の津波が、COVID-19という新型コロナウィルスであったことは間違いありません。でも、本当の大きな津波は、人の心の中に起こった「不安」という感情だったと思います。この「不安」の感染力は強大で、あっという間に私たちの間に拡がり、劇場文化を一気に飲み込んでしまいました。私は、その様子を身近で経験することになりました。

 現時点まで、私自身の演出作品は三つの公演が中止になりました。

 3月の東京・日生劇場での『Whistle Down the Wind(ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド)~汚れなき瞳~』(三浦春馬/生田絵梨花主演、東宝×アミューズ主催)は、初日が3度延期になり、やっと初日を迎えた矢先に、外出自粛要請が出て千秋楽を待たずして終了、その後の地方公演も全てなくなりました。

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