丸山あかね(まるやま・あかね) ライター
1963年、東京生まれ。玉川学園女子短期大学卒業。離婚を機にフリーライターとなる。男性誌、女性誌を問わず、人物インタビュー、ルポ、映画評、書評、エッセイ、本の構成など幅広い分野で執筆している。著書に『江原啓之への質問状』(徳間書店・共著)、『耳と文章力』(講談社)など
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
『小説伊勢物語 業平』を上梓した髙樹のぶ子と万葉学者上野誠の含蓄対談
上野 折口信夫の貴種流離譚というのがあって、貴種が旅を通して人生を知っていくという。そのスタイルが確立するのは「伊勢」なんですよね。「伊勢」があるから「源氏」の須磨帰りもあるわけで。この見せ方の構造は現代にも脈々受け継がれていて、映画「渡り鳥シリーズ」もそう。三枚目のエンタメ系になら、「寅さんシリーズ」もそうなんですよ。
髙樹 寅さんは貴種ではないにしてもね(笑)。
上野 『坊ちゃん』もそうですよ。あれは読者を想定しているから性の話がないけれど。性を扱うというのは、近代小説に近いということで言うと「源氏」なんだけども、近代小説の原型まで遡れる形ということになると「伊勢」だと思うんですよね。何が言いたいのかというと、髙樹さんがお書きになった『小説伊勢物語 業平』は、古典と思って読むのではなく、むしろ現代小説だと思って読んだほうがいいということ。
僕は業平の恋愛術の数々が、現代にも十分に通用するということに衝撃を受けて。たとえばの話、ちょっと訳ありで別れた女と久しぶりに会うことになったと。その時にどういうそぶりをするのが良いのかということの答えが『小説伊勢物語 業平』に出てます。それで伺いたいと思ったことがあるのですが、髙樹さんはこの作品を書いている時に、古典の世界に耽溺(たんでき)されながら描いておられたのか、それとも頭の中で現代に置き換えておられたのか。
髙樹 小説家というのは自分の中にすでに現代があるわけです。私が何をやろうと現代の造形しかできない。自分が現代の作家である以上、そこからは離れられないだろうっていう風に思います。
上野 実は古典研究も同じなんです。古典研究者は古いもの原義とは何か、同時代にどう考えられていたかを突き止めようとして、さもそれを突き止めたかのように論文を書くのですが、解釈しているのは現代を生きるあなたですよねって話で。古典研究もつないでいくとその時代を反映しているわけです。契沖だったら契沖っていう江戸時代のお坊さんの知識や生き方が反映した源氏物語注釈があり、明治の人が書いたら明治時代の文化や風習が反映した源氏物語注釈になる。それでいいと僕は思うわけですけれど。
髙樹 私もそれでいいと思います。なぜなら作家は同時代を生きる人のために書くのですから。それも作家の仕事のうちなんですよ。
上野 大変失礼な言い方になりますが、拝読する前、古典の研究家としては「伊勢物語の小説化ってどうなの」みたいな気持ちもちょっとありました。でも読み終えて「やられたなー」って。
業平というのは色好みな男の代名詞として語り継がれてるけれど、小説のテーマを一言で言うなら「本当の人間の優しさとは何か」ですよね。好色というと性への関心が高いという解釈になってしまうけど、色好みというのは人を愛し、人から愛されること。根源的な人間力みたいなものなんだなってことに気づかされました。
髙樹 嬉しいです。業平は女好きでどうしようもない男ではないという新説を打ち立て、どれだけ説得力を持って物語を紡いでいけるか。これはとても意味のある挑戦だったと思っているので。
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