SMAPの登場、そのブレークへの道のり
SMAPはアイドルの定義を変えた
前回まで、1990年代にSMAPが国民的アイドルになるまでの流れをみてきた。ただ他方では、その頃男性アイドル史を語るうえで忘れるわけにはいかない別の流れも生まれていた。それがダンスパフォーマンスを中心にしたグループの台頭である。以下ではまず、その草分け的存在であるDA PUMPを中心にその流れをたどってみたい。
沖縄とアイドル
「U.S.A.」(2018年発売)の大ヒットで奇跡的復活を果たし、再び脚光を浴びたDA PUMP。この曲もPVから人気に火が付いたように、ダンスが大きな魅力になっていた。現在は7人編成だが、オリジナルメンバーは現メンバーでもあるISSAを含めて4人。全員が沖縄出身だった。
沖縄は、数多くのアイドルを輩出してきた土地柄である。
女性アイドルのパイオニア的存在である南沙織は1971年、「17才」でデビュー。天地真理、小柳ルミ子とともに「新三人娘」と呼ばれ、時代を代表するアイドルになった。

フィンガー5のメンバーだったT.AKIRA(本名:玉元晃)さん=2008年、OP写真通信社
またその直後の1972年には男性4人、女性1人のきょうだい5人編成のフィンガー5がデビューし、「個人授業」(1973年発売)、「恋のダイヤル6700(シックスセブンオーオー)」(1973年発売)、「学園天国」(1974年発売)とビッグヒットを連発してブーム的人気を巻き起こした。デビュー時が12歳、声変わり前の高音が魅力だった晃がかけていたトンボ眼鏡(レンズが大きな丸形のファッション眼鏡)も話題になった。
背景には、沖縄ならではと言える事情もある。
戦後、アメリカの軍政下に置かれていた沖縄は、1950年の朝鮮戦争勃発とともに軍事上の要としての役割を増していく。1952年のサンフランシスコ講和条約の発効後も引き続きアメリカの施政下に置かれ、住民による復帰運動の高まりもあったもののアメリカがベトナム戦争への関与を強めるなかで1960年代もその状況は続いた。そしてようやく、1972年、佐藤内閣の時代に沖縄の日本復帰は実現する。
そうした状況のなか、在日米軍の存在が文化面、特に音楽面にもたらした影響も小さくなかった。
戦後日本のポピュラー音楽は、米軍基地とその周辺にあるジャズ喫茶などの音楽関連施設を通じて発展した面がある。たとえば、大手芸能事務所・渡辺プロダクション創設者の渡邊晋は、米軍基地などで演奏するジャズミュージシャンだった。また西城秀樹が、アマチュア時代に岩国基地などで演奏していたことも前に述べた通りだ。
フィンガー5も同様で、父親が米軍関係者向けバーの経営者であった。小さいころからアメリカのポピュラー音楽に慣れ親しんだ彼の子どもたちは、バンドを結成。沖縄のテレビ番組でのコンテスト優勝をきっかけに上京、「ベイビー・ブラザーズ」としてデビューを果たす。だが思うような結果が出ずあきらめようとしていたところに、再デビューの話が持ち上がる。そこで誕生したのが、マイケル・ジャクソンのいた同じきょうだいグループであるジャクソン5をお手本にしたフィンガー5だった。