小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
息苦しさと不寛容とをないまぜにした嫌な緊張感が生み出されている
福嶋様
第六信、ありがとうございました。
困りました。まだまだ応答を共有したい箇所が沢山あるのですが、この連載も最後のイニングを残すのみとなってしまいました。往信を送れば翌日には必ず復信が掲載されることが約束されていて、それが約1カ月にわたってきちんと履行されているというまるで魔法のような奇跡(笑)を、いまはとても幸福な時間だと思えます。改めて、この機会をいただきありがとうございました。
さて、福嶋さんのハムレットから「主人と奴隷の弁証法」にいたるくだり、唸って読ませていただきつつもついぞ頭から離れなかったのが、トニ・モリスンの『ビラヴド』(ハヤカワepi文庫、2009年)です。
奴隷として連れ戻され自分と同じような運命を繰り返すならいっそと、逃亡中に実の娘に手をかけたセスと、後年に亡霊となって現れるその娘「ビラヴド」の物語は、マーガレット・ガーナーという女性の実話をベースにしていますね。主人と奴隷の関係自体を成立させまいとしたガーナーは同時に、もしかしたらその「主客」関係を世俗的には転倒させられたかもしれない可能性(たとえばハイチ革命のトゥサン・ルヴェルチュール)をも摘み取ったのです。それも突然に。娘の墓碑に刻んだ『ビラヴド』という文字も、字の書けないガーナーが性的関係を提供する代償として他の男に書いてもらったのでした。
奴隷であるということと性的搾取の対象としての女性であること。この二重性がヘーゲル的な指向性にどれだけの不協和音を響かせることができるかどうかは、はっきり言って僕もわかりません。僕の直接の師であるポール・ギルロイは、そもそもアメリカにおけるアフリカ人奴隷は商品であり、社会的には「死」んでいると言います。つまり社会的に「いない」のです。
ギルロイは、ガーナーが「死」でしかなかった奴隷という存在になってしまいかねない娘を〈物理的に消す=殺す〉ことによって、主人と奴隷の弁証的関係そのものの潜在的可能性をも摘み取ろうとしたのだと、挑発的に喝破しました(『ブラック・アトランティックー近代性と二重意識』月曜社、2006年)。
ところが、ある意味で予見された苦しみから救ってやったはずの娘は、亡霊になって戻ってくるやいなや、セスの愛情を求めて読んでいるこちらが時にイライラするくらい傍若無人に振る舞い、子殺しの自責の念と生き残った罪の重みに悩み続けるセスを再び奴隷的な立場に追い込もうとしてしまいます。「ビラヴド」とセスとの疑似的な主人と奴隷の関係を断ち切ったのは、生き残ったもう一人の娘デンヴァーでした。
これを、母性の物語にしてしまう解釈もあります。「惨めな人生を送るくらいなら」と、あえて子殺しの罪を背負うセスの母性です。しかし、モリスンの作品を「シスターフッド」の視点から読み解く批評家のベル・フックスを参考にするならば、『ビラヴド』は、一方は生き残り、他方は殺された姉妹が一見対立するように見えながらも、奴隷的立場へと常に引き戻されるセスの軛を壊すことに成功する女性同士の連帯として読むこともできるでしょう。一方は再び消え去り、他方は残る選択を自らすることによって。
久しぶりに『ビラヴド』を読み返しながら、ふと、教室で授業のできない今の状態では学生も教師も「ビラヴド」の状態になっているんじゃないかと思いました。二歳で突然この世への出入りを禁じられ、亡霊になって戻って来られても過剰に愛情を求めるばかりに鬱陶しがられ、結局身を引くことで、言ってみればやっと「往生」することができる「ビラヴド」。同じように、教室で授業を受けるという日常が突然遮断されたと考えてみましょう。かなり無理はありますが、まあ、「ビラヴド」はそれこそ読む人の数だけ解釈を可能にし、テーマも複数多岐にわたる不思議な物語なのでお許しください。
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