メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

無料

【7】言葉のパンデミック

息苦しさと不寛容とをないまぜにした嫌な緊張感が生み出されている

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

不寛容の出現

 自粛要請期間が終わり教室に戻ることは可能ですが、大学の方針でしばらくはオンライン授業が続きます。もしキャンパスが再び開かれる時、戻ってくる学生が3月以前のままだとは僕には思えない。成長しているからということではなく、この3〜4カ月のあいだに勉強への取り組み、大学生であること、友だちや教員との距離(ディスタンス)の取り方作り方、そして会話で用いる言葉遣いが、この期間以前とはほぼ切断され、新しい方向へと転換されていると思うのです。

 福嶋さんは前信で、「『書店の⽇常』の中に『⾔える』ことへ貢献はあり得るのか?」と問われましたね。答えはもちろん、おっしゃられるとおり、「ある」です。しかし、「書店の日常」はおそらくこれまでの日常とは異なり、〈「言える」=アウトプット〉の中身も以前とは違ってくるのではないでしょうか。

拡大Shutterstock.com

 「新常態」や「新しい生活様式」を無批判に受け入れるということではありません。しかし、この日常の切断と転換は思ったよりもシビアなものになりそうな気がします。以前のままに振る舞おうとすると、「おいおいちょっとまて」と鬱陶しがられるかもしれない。さあ再開だとはりきって授業をしても、受講者との熱量交換がうまくいかないのではないか。卒論、修士論文、博士論文執筆のための調査研究の不在を埋めようと積極的にフィールドワークや史資料収集に出かけても、以前の研究倫理や姿勢が過剰に映ってしまうのではないか。

 「書店の日常」も「教室の日常」も、決して終わりなきものではなかったのでしょう。何かが「終わり」、別の何かが始まらなければいけないのかもしれません。コロナ禍の過程であまりにも「日常的」に使われるようになった言葉群があります。レジの前での「ソーシャル・ディスタンシング」、「不要不急」ではない絶対的な理由を言葉にできずに今日もまたオンライン授業、などなど。「隔離」、「自粛」、「クラスター」、「オーバーシュート」、そして「国難」。これらの言葉群によって私たちはコロナとの「共生」を当然視できるようになる一方で、インフレ気味の使われ方は過剰な社会変容を導くかもしれません。

 まずは不寛容の出現です。うっかり「ソーシャル・ディスタンス」を取っていないと判断されれば罵声を浴び、なんでも「不要不急」ではないという言い訳を準備しておかねばならない。「隔離」と「自粛」の禁を破ったものは公開で晒し者にされ、「オーバーシュート」によって「クラスター」を生み出した日には、その場所は物理的な攻撃の対象にすらなります。

 特別定額給付金は、生活を成り立たせるためではなく、「見えざる敵との闘いという国難を克服するため」のものなのだそうです(「特別定額給付金」案内状の文言)。不可視で、不可知で、専門家に知識が専有されており、その説明や判断に頼らざるをえない未知なものがそこかしこにうようよしている。解像度をいくら上げてもはっきり掴み取ることはできないので、様々な言葉で外縁をなんとなく特定し、輪郭を把握しきったつもりにならないと不安になる。

 感染拡大を防ぎ注意力を喚起するための言葉群だったものが、まるでそうした言葉群自体が感染症的な熱を社会に投射してはいないでしょうか。お世話になっている編集者の表現を借りるなら、「言葉のパンデミック」とでも言えるものが発生しているかのように、息苦しさと不寛容とをないまぜにした嫌な緊張感が生み出されているのです。言葉の「デュアル・ユース」問題と言えるかもしれないですね。

 統治する人間たちや統治機構にとっては、社会システムを合理化し効率化する絶好のチャンスでもあるでしょう。これらの言葉群はそのための効果的な道具となってしまうのかもしれません。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

小笠原博毅の記事

もっと見る