小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
息苦しさと不寛容とをないまぜにした嫌な緊張感が生み出されている
不寛容は当然対象の具体性とわかりやすい区别化の指標を求め出します。それが外国人や特定の人種や特定の職業を標的にするヘイトに着火される構図です。朝鮮学校にはマスクは配らない。外国人留学生への援助金は無条件で給付しない。マスクは人参の代わりにすらならないし、外国人留学生の正規の学費は日本国籍を持つ学生よりも高額なのですが、ここぞとばかりに「違い」を際立たせることをする。
合理化や効率化への対抗策としての常套手段はまず、「無駄を愛でよ」という発想ですね。これは先日の坂本龍一の言葉です。ずっと以前に、池波正太郎は「どれだけ無駄を許容できるか、それが文化」だと言っていました。これは彼が煙草について語った言葉です。書店も教室も、この大いなる「無駄」を包摂し、リシャッフルし、パターンやスタイルを変えて生み出し直す装置として機能してきたし、その役割を期待されている場所です。しかしこうした訴えは、いまどこまで有効でしょうか。ちょっと首をひねらざるをません。
二つ理由があります。まず、合理化や効率化――これらを尊ぶ原理はネオリベラリズムと一言で片付けられる傾向にありますが――は経済成長を目的としているから、環境や気候変動のことを加味してそんなものはもう無効だと発想を切り替え、持続可能な方向へ向かおうと言われます。
しかし持続可能な社会には、そこに適合されるべき別の合理化と効率化が必要になります。切り捨てや加速的な業績主義ではありませんが、農業、漁業、林業などに従事している人たちの生活を少しでも垣間見ればわかるでしょう。「無駄」はないんですよ。本当に忙しいんです。いわゆる第1次産業は、「晴耕雨読」とは正反対の作業の連続です。だからこそ、生活と生業の真っ只中から文化が生まれてくるんです。「無駄」からは生まれては来ない。たまに田舎に行って「田舎はいいな―」という人間が信用できないのは、こういう理由です。
次に、「無駄」自体が市場原理で選別されるからです。カネになる「無駄」、ならない「無駄」。前者はたいがい統治者にとって「無害」かつ「有益」なものと重なります。後者は、弾圧の対象になります。「愛でよ」と偉そうに言われる筋合いはないので、池波先生の言葉に寄り添い、いっそ僕は「無駄」ではなく「許容」に力点をおいて考えたいと思います。
なぜなら、書店も教室もまさに「許容」の場所だからです。前々回(第三信)と同じ話の繰り返しですね。過剰、不足、トライ&エラーが平気で起こり、インプットと同時に〈アウトプット=「言える」〉が「許容」される場所としての書店と教室です。言うことを仕入れて「言える」ことに変換する場所では、仕入れる内容や「言える」という態度は、経済的要請とは関係なく選別されます。