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【7】言葉のパンデミック

息苦しさと不寛容とをないまぜにした嫌な緊張感が生み出されている

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

「自粛」を自主管理へと導く

 ただ、これまでの「許容」のやり方だとだめなんじゃないかとも思います。進化なのか、変化なのか、それはわかりませんが、いちいち圧倒的な「言葉のパンデミック」が襲いかかってくるとしたら、立案可能な作戦はどんなものでしょうか。

 まずは、いちいちその語彙の意味を問い直すこと。はなはだしいのは「国難」でしょうか。国難は自然現象ではありません。「難」を特定の政治指向を目指す利用可能な資源とするために、「国」を形容詞として強制的に「国」民以外を排除し、残ったものを「国」の内部に包摂するための言葉です。とはいえ、一つ一つこれをやっていては(必要ですが)疲れます。

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 そこで次に、たとえば「自粛」は「自発的隷従」だからダメだ! と一気にまくしたてないで、「自」だけを取り出して他の可能性を探ってみる。福嶋さんはたびたび、お客さんから教わる、部下の店員さんから教わる、書店はそういう現場であることを強調されてきましたね。僕ならば、学生から教わることがあるということです。

 でもそれは学生が教師になったということではありませんね。役割は変われど、立場は変えられない。「非対称」ですからね。ただ、学生と教師がお互いに勘違いをすることはありえます。教える/教わる正当性がカッコに入れられるんです。その正当性を消そうとするのは、「ダイナミックな『弁証法』」の芽を摘んでしまうことになります(第四信)。しかしこの勘違いによって教師と学生が入れ替わり、それでもきちんと教室が成立しているなら、それは教室が自主管理されたと考えてもいいのではないでしょうか。外部からの指令も指示も監査も評価も受けない、自主管理です。

 教師を排除して学生だけで自主勉強会や読書会をするということではありません。もちろんそれはあっていいことですし、教室という場所の極めて大切な価値です。もっとも最近は、国立大学であってもすべからく「許可」制で、「許容」はしてくれないのですが。まずはそのあたりにジャブを打ちつつ、パンデミック状況でなぜ「自粛」はあっさりと生まれるくせに、自主管理は生まれないのかを考え、「自粛」を自主管理へと導くことを目指すことが必要だと思います。いや、もう生まれているのをきちんと見据えられていないだけなのかもしれませんが。

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筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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