ぼくたちは、世界には言葉がもっともっと豊穣にあることに気づかねばならない
2020年05月31日
小笠原様
第七信、ありがとうございます。
「緊急事態宣言」が解除され、休業自粛要請も段階的に解かれ始めました。閉めていた書店も営業を再開し、ジュンク堂書店難波店も6月1日には、時短・土日祝休業から、平常営業に戻ります。「宣言」や「要請」の解除が、その発令と同様、為政者の恣意に基づくものであり、コロナウイルスが死滅したわけではまったく無く、感染への防御は間違いなく続けていかなければなりませんが、ともあれ、「書店の日常」は帰ってきます。
第六信の最後にぼくは、「書店の日常」の中には「言える」ことへの貢献がある、その理由は「言える」(アウトプット)ためには、インプットが必要だからだと言いました。
本からのインプットは、分かりやすいと思います。だが、「書店の日常」からのインプットとは、何でしょうか?
これまでにも言ってきたように、トークイベントが参加者に(そして登壇者にもまた)大きなインプットを与え得ることは、間違いないでしょう。しかし、毎日トークイベントを開催している下北沢のB&Bのような例外を除いて、トークイベントは書店にとって、あくまで「非日常」です。ここでは、整然と本が並んでいる「書店の日常」が、いかに来店者にインプットを与えるのか、を考えてみたいのです。
嶋浩一郎さんは、『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』(祥伝社新書)で、〝リアルな本屋があるべきいちばんの理由は、「人間はすべての欲望を言語化できていない」ということが根本的なところにあります〟と言っておられます。言語化できる人の欲望は限られていて、一割にも満たないのではないかと言うのです。書店に並ぶ本の表紙や背表紙のタイトル、そして手に取って開き、目次やまえがきの言葉を見た時、改めて(または初めて)自分の欲望が分かるという訳です。
自らの欲望に気づく、言わば欲望をインプットされるためには、膨大な言葉の森林浴に浸ることが必要なのです。インプットされるのは「情報」だけではありません。人間の感覚は自分が思っている以上に優れ、感情が捕まえるものは思いもかけず豊穣です。思うためには言語を媒介しなければならず、こと欲望に関してはそのほとんどが言語化されていないからです。
だから、書店では「思いがけない」遭遇が起こります。文化人類学者の今福龍太さんによると、師・山口昌男の口癖は、「本と目が合う」「自分が本を選ぶのではなく、本が自分を選ぶ」だったそうです。
今週はじめに出た『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)の中で、寄稿者の一人大澤真幸さんは、次のように書いています。
〝人民には、自分の欲望や意志についての自覚はない。人民は自分が何者なのか、何を欲する者なのかわかっていないわけです。人民は、自分たちを透明に代表してくれている――かのように見える――指導者を通じて、初めて自分の欲望や意志を自覚するのです〟(P26)
これが、民主主義⇒全体主義という、一見相容れないものへの移行のメカニズムです。いわば、人々は、「皆さんを代表している、皆さんの声を代弁する」と僭称する者の欲望に、簡単に同化されてしまいがちなのです。たとえば、橋下徹が
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