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〝分断のシンボル歌〟が今もうたい継がれる不幸 その2

【21】ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

 「イムジン河」は30年もの時の流れの中で封印は解かれたものの、〝生みの親〟である松山猛の胸中には、もっとも大きな〝禁断の河〟がわだかまり続けていた。「イムジン河」を発売中止に追い込んだ朝鮮総連側との間がいまだ分断のままであることだ。しかし、ようやくそれが解かれるときがやってきた。

軍事境界線から南に約7キロ。イムジン河畔にも近い「臨津閣(イムジンガク)国民観光地」の丘。南北統一を願う無数の風車が回っている=2009年12月9日、韓国・坡州市

〝昔の敵〟との半世紀ぶりの和解

 コロナ禍が兆しはじめた今年の2月28日、NHKのBSの人気シリーズ「アナザーストーリー・運命の分岐点」の「時代に翻弄された歌・イムジン河」が放映されたなかでのことだった。

 さすがNHKの取材力やおそるべし、番組では、半世紀前に「イムジン河」の発売に「待った」をかけた当事者を登場させ「釈明」をさせたのである。その人物とは李喆雨(イ・チョルウ)、81歳。当時は朝鮮総連傘下の在日本朝鮮文学芸術家同盟の音楽部長だった。

 あの時、私は、朝鮮総連の真意は奈辺にあるのかはかりかねた。というのも、あの時代、「南北の融和・統一」をうたうのは「北」にシンパシーをもつ陣営の人々だったからだ。著作権の主張は正当な行為ではあるが、「放送禁止歌」にしてしまっては、「北」への潜在的支持者を失望させる可能性があり、元も子もなかったのではないか。

 番組で、往時のクレームの動機を問われ、李元音楽部長はこう語った。

 「(オリジナルが)先進国のものだったら(レコード会社も)丁寧に調査するのだろうが、北朝鮮ということで、後進国というか低くの見られたというか、何か卑下されたように感じた」

 李のいう「卑下」とは「蔑視」の意味であろう。つまり、「蔑視」されたことへの抗議だったというのだが、だとしたら、なんとも皮肉なことだ。前述したように、日朝の子供たちを「蔑視」から「対等」の関係にしようと、松山少年が動いた結果、何年もかけて実ったのが、「イムジン河」という唄だったのではないか。

 あの日、松山は仕事から帰宅して母親とテレビをみていて「発売中止」のニュースに愕然としたというが、その原因が李のいう「卑下」では納得がいかないだろう。まさにイムジン河と同じような〝禁断の河〟が突然、松山とフォークルの前に流れはじめたようなものだった。そしてそれは数十年もとうとうと流れて行く手を阻みつづけたのである。

 しかし、番組の最後に思いもかけない「和解」が用意されていた。李からのたっての希望で、「はじめまして」で始まる李自身による「半世紀ぶりの和解状」が、ビデオレターの形で松山のもとへ届けられたのだ。

 「(当時)松山さんの翻訳に感銘をしました。いつもいじめられて殻にとじこもっていた私たち(在日同胞)に、優しい言葉をかけてくれたことがうれしかった。(松山の歌詞の3番にあるように)朝鮮半島に虹がかかって、朝鮮に統一が早くくればいいと日本人が思っていたことに、お礼を申し上げたい。ありがとう」

 と李が涙ながらに語ると、松山も思わず眼がしらをハンカチで押さえて何度もうなずいていた。

歌:「イムジン河」(ザ・フォーク・クルセダーズ)
 作詞:朴世永、松山猛(訳詞)、作曲:高宗漢
時:1968(昭和43年)
場所:京都の鴨川にかかる九条大橋のたもと、あるいは南北朝鮮の国境を流れる「臨津江」

「この曲が歌われなくなる日を待ち望んで生きてきた」

 李はすでに朝鮮総連の活動からは身を引いているというから、すべてではないにせよ、ホンネを語ることができたのであろう。50年前、朝鮮総連側の責任者であった李は、その当時からフォークルの「イムジン河」を評価していたことを告白

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