2020年06月05日
新型コロナの影響で休業中だった各地の映画館が再開している。さて何を観ようか、と迷うことはない。まずは“映画の聖地”、東京・シネマヴェーラ渋谷のヒッチコック特集に駆けつけよう!――まったくもって、この時期に“サスペンスの神様”、アルフレッド・ヒッチコック監督(英、1899~1980)の35作品が上映されるとあっては、映画ファンは絶対に見のがせない(6月6日~、ヒッチコック監督特集Ⅱ)。
ヒッチコックの全作品57本のうち、その過半数がスクリーンで観られるわけだが、しかも演目が、これまたシネマヴェーラならではの、目を見張るようなユニークさである。切り裂きジャックを題材にした『下宿人』(1927)などのサイレント8本を含む、ヒッチコック英国時代(1925~39)の白黒作品が20本もセレクトされているばかりか、アメリカ時代(1940~76)の作品も、最もポピュラーな『サイコ』『裏窓』『めまい』といった後期の名作群ではなく、第1作『レベッカ』(1940)から『私は告白する』(1953)までの、いわば初期から中期の、比較的知られていない、しかし極上の15本――うち13本が白黒――が上映されるのだ。なんという贅沢なラインナップ!
――というわけで、上映作品すべてが必見だが、ここでは2回にわたって、とくに注目すべき重要作を取り上げ、そのほかの作品にもできるかぎり言及したい(ほとんどのヒッチコック作品品はDVD化されている)。
■『三十九夜』(1935、英、6月6日から上映)
「映画とは、人生から退屈な部分を差し引いたもの以外にありえようか」。このヒッチコック自身の言葉を、彼がそのまま映画にしたような、“巻きこまれ型”サスペンスの最初の傑作。けだし『三十九夜』では、殺人犯に“間違えられた”無実の主人公が、金髪美女/“ヒッチコック・ブロンド”を道連れに、犯罪組織と警察の両方から追われ、またみずから真犯人を追うという物語形式が、すでに一分の隙もなく完成されている。その点でも、英国時代ヒッチコックの最重要作の1本だ(こうした<追いつ追われつ>の物語パターンは、『第3逃亡者』(英、1937、今回上映)、『逃走迷路』(米、1942、今回上映)、『北北西に進路を取れ』(米、1959)に引き継がれるが、いずれもヒッチコック・タッチ全開の必見作だ)。
そして構成、演出、手法の面でも、各シーン、各ショットが緊密に結びつき、ゆえにスリルとサスペンスは一瞬たりとも途切れず、しかもロマンティック・コメディ風の軽妙な旨味、ウィットに富んだ英国式ユーモアにあふれ、はたまた目を奪う映画的アイデアが随所にちりばめられた本作は、映画作家ヒッチコックの原点であるとさえ言えよう(原作はジョン・バカンのスパイ小説『三十九階段』)。
殺人の容疑をかけられたハネイは、アナベラが言い残した謎の言葉、「三十九階段」とくだんの地図を手がかりに、スコットランド行きの急行列車に飛び乗り、逃亡者でありながら追跡者=<素人探偵>となって、怪事件の核心に迫っていく(このように多くのヒッチコック作品では、主人公は刑事やプロの探偵ではなく、思いがけない偶然から難事件に“巻きこまれる”一般の市民だ)。
といっても、『三十九夜』で焦点化されるのは、推理/謎解き/犯人探し(フーダニット)ではない。ドラマを牽引するのは、転々と場所を変えながら、大小のヤマ場がめまぐるしく継起し、シチュエーションも次から次へと変転していく<活劇的な運動/アクション>だ。つまりは、主人公ハネイがくぐり抜ける、息づまるような冒険の連鎖である。
たとえば、警察に追われるハネイは、疾走する急行列車の外に出、窓づたいに移動し、列車が鉄橋の上で停まるや橋の支柱にしがみつき、素早く身を隠し、すんでのところで逮捕をまぬがれるという離れ業を見せるが、こうした活劇シーンの連続に引き込まれる観客は、「謎解き」には興味が向かわない(<列車>も、すぐれてヒッチコック的な移動空間)。
もっともハネイは、奇想天外な旅のさなかに、いくつもの謎に直面する。しかしそれらの謎は、名探偵の推理=長台詞によって解決される謎とは異なり、
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