2020年06月09日
『はだしのゲン』(汐文社ほか)は初出の「少年ジャンプ」で読んでいた。連載が始まった1973年は、ちょうど中学校にあがった年だった。活字も漫画も音楽も映像も、全てがストレートに幼い頭脳に飛び込んでくる、そんな時期だ。特に漫画は直感的で、原爆の地獄絵は理屈抜きにそのまま地獄として脳裡に焼き付いた。学校の授業で原爆被害の写真なども見たことがあったが、中沢啓治の絵の方が遙かに強力で色褪せなかった。
それがなぜ今回、この状況のなかで改めて読もうという気になったかといえば、もうずいぶん以前から、この漫画からの引用がツイッターにあげられているのが散見されるようになり、そういえば何年か前に、松江市の小中学校の図書館で閲覧制限をしたことが大問題になったことなどを思い出し、あの時の右からの異様な反応に危惧したことが、その後じわじわと具現化していき、このコロナ禍で一気に噴き出したような気がしてきたからだ。
ほぼ一晩で全10巻を一気に読んだ。そして改めてすごい作品だと思った。読めば時代の中で自分がどの位置にいるのかが確認できるコンパスのような作品。本来、名作とはそういうものだろう。
ひとつ、大きく勘違いしていたことに気づいた。何となくこの漫画は広島に原爆が落ちるまで、つまり戦前戦中のことと、とりわけ原爆投下直後の惨状が、少なくとも全体の半分以上を使って描かれているのだとばかり思い込んでいたのだが、実際は原爆が落とされるまでが全体の10分の1のボリュームであり、敗戦を告げる玉音放送の場面でさえ全体の4分の1を過ぎたあたりなのだ。つまりこの大長編漫画の4分の3を占めているのは、戦後復興期のことなのである。
もちろん全編を通じて描かれるのは、原爆被害がいかに後々まで悲惨な影響を及ぼすのかというテーマであり、反戦思想を貫いたゲンの父親を「非国民」と呼び捨てて迫害し続けたにもかかわらず、戦後手のひらを返したように「反戦政治家」のふりをして県会議員となる鮫島伝次郎という人物を要所要所で登場させているところなど、著者が描こうとしているのが「戦争と日本人」であることは明らかなのだが、改めて全体を見渡した時、この物語の骨格をひとことで表すとするならば、中岡元という類まれな向日性を持った少年が、数々の困難を乗り越えて成長していく典型的な「ビルドゥングスロマン」なのだ。
大掴みにそう捉えて読み直してみると、根幹にある反戦・平和への願い、アメリカに対する反発や天皇制への疑義、多種多様な差別や圧倒的な貧困から発してはいるが、それだけには収まりきれない多彩なサイドストーリーに溢れている。
特に少年たちが寄り添って自分たちの力で家を建て、擬似家族を営む中で、仮想の「お父ちゃん」と決めた小説家、放射能を浴びたせいで無気力になり自暴自棄に陥った老人が、少年たちに救われて再び筆を執り、原爆症で朽ちてゆく体の最後の力を振り絞って広島の悲惨を書き遺そうとするくだり。その原稿をゲンたちがなんとか自らの手で出版しようと奮闘して、結局刊行の決め手となった紙を手配してくれたのが、かつて同じ町内でひどい差別を受けながら、商人として成功し大金持ちになった在日朝鮮人であったこと。そして最後の最後でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲に引っかかり差し止めになってしまうところなど、サイドストーリーではありながら妙に心に残る。
それにしても今、このコロナ禍のなかで読むと、われわれ日本人の変わらなさに唖然としてしまう。変わらないどころか、根拠のない差別意識、強者への忖度と媚びへつらい、同調圧力に抗うことの難しさ、弱者をより貶めようとする性向など、現在の方がより酷くなっているのではないかとも思う。日々ツイッターで繰り広げられるヘイトまがいの言葉を漫画の吹き出しに収めたとしたら、それがより明らかになることだろう。SNSという電脳空間に響いている叫びは、もしそれを音声化したならば、普通の神経では聴くに耐えないものになるだろうことは間違いない。
被曝者に対するいわれなき差別と、新型コロナウイルス感染者や医療施設で働いている人たちへの冷たい仕打ちを比べてみればいい。看護師の子どもを拒絶する保育園。感染した職員を不当解雇する介護施設。そしてまた、休業を拒む飲食店に卑劣な貼り紙をする「コロナ自警団」は、まるで『はだしのゲン』の世界から現代に飛び出してきたような人々だ。
また、今大きな波紋を呼んでいる木村花さんが亡くなった問題など、その隣に顔に受けたケロイドのせいで世をはかなみ、繰り返し自殺を図る女性たちを置いてみると、より深刻さが身にしみる。原爆によって顔に受けた傷と、ネットによる誹謗中傷で内面に負った傷に違いはあれど、本質的には同じ構造にあるだろう。
いや、漫画のなかの彼女たちには、その都度自殺を押しとどめ、生きる方へと励まし導くゲンという存在があっただけ幸福だった。もちろんフィクションの中の話ではあるが、この他者に向ける眼差しの温かさ、交わろうとする熱量の高さは、現代を生きるわれわれの中には見出し難い。
あるいは入国管理局で繰り返される外国人に対する酷い仕打ち、また最近起こったクルド人への警察の暴行事件などを考えたら、まさに『はだしのゲン』で描かれた世界を思わずにいられない。
冒頭で松江市の学校図書館の問題で右派がとった対応のことを挙げた。
たとえば雑誌「正論」では2013年11月の創刊40周年記念号で「総力特集『はだしのゲン』許すまじ!」という企画を派手にぶち上げているが、目次のタイトルを見ただけで、その過剰反応に驚く。
[総力特集『はだしのゲン』許すまじ!]
問題シーンを一挙公開
これでも子供たちに読ませますか?
愛なき史観は国を滅ぼす
松江市教委はなぜ迷走したのか―そして子供たちが犠牲になる
気は確かか? 擁護派のトンデモ発言
歪んだ賛美キャンペーンに朝日新聞の本性を見た!
『ゲン』だけではない 学校図書館にのさばる反日書籍
こう並べてみると、ほとんどパニックに陥っていると言っていい。彼らにとって醜悪でショッキングなのは、必ずしも原爆や戦争の悲惨さが強調されている場面ではないだろう。おそらくはそこに描かれた日本人の心性の醜さに、まるで鏡で自らの姿を見せつけられているような嫌悪感を抱いたからに違いない。
現代と重ねながらこの漫画を読むとき、驚くほどの類似点があるにもかかわらず、また一方で隔世の感が拭えないことも否めない。
ここにある「苦難は必ず乗り越えられるべきものであり、その先には明るい未来が待っている」という自明さは、今となっては眩いほどだ。生まれた時から右肩下がりの経済。個人に降りかかる苦難を乗り越えたところで、決して乗り超えることのできない格差の連鎖……。その上、現政権が次々に振りまく倫理の崩壊は、「因果応報、悪行は必ず罰せられ、善は必ず報われる」という物語の基本的な構造までをも成り立たなくしてしまった。
いったい現代日本を生きる若い世代には、今後どのようなビルドゥングスロマンがありうるというのだろうか。
「そして子供たちが犠牲になる」……「正論」の目次に出てくる言葉を、そのまま『はだしのゲン』を否定する諸兄に贈りたい。
戦後の空間を生きてきた者にとってみれば、「まさか生きているうちにこんなことが……」というような衝撃に、このところ見舞われない日はない。とりわけこの国の社会と文化から、言葉の価値、約束の重さや人格の品位、そして誇りや正義ということを徹底的に奪い去った現政権の罪は重い。
まったくもって、「嘘はドロボウのはじまり」である。一方、「嘘も方便」ともいう。後者は〈こんな人たち〉でないお友達に通用するだけだが、前者は〈天網恢々、疎にして漏らさず〉、あまねく世に通ずる言葉だ。
大体において、こんな子どもに言い聞かせるような言葉をいまさら一国の長に向けて発せねばならないことに限りないバカらしさを感ずる。しかし、それでも言わねばならないのは、こんなにも醜悪な政権を生んでしまったのはわれわれの責任なのだし、そもそも盗まれているのはわれわれの税金だからである。
それにしても広島! そういえば、官邸が黒川弘務東京高検検事長の定年延長を焦った直接的な要因と思われる河井克行元法務大臣と、その妻である自民党議員河井案里氏の疑惑の舞台は広島である。
世界で唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約への不参加を表明する首相。その首相とごく親しい関係にある河井夫妻を、広島の地霊はどう遇するだろうか。せめてそこには「物語」の機能が正しく働いて欲しい……などと思いつつ、一気に読み終えた本を枕元に置いて、明け方ようやく眠りについた。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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