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コロナ禍のなかで『はだしのゲン』を一気読みした

大槻慎二 編集者、田畑書店社主

「原爆」にとどまらない多彩なサイドストーリー

 ほぼ一晩で全10巻を一気に読んだ。そして改めてすごい作品だと思った。読めば時代の中で自分がどの位置にいるのかが確認できるコンパスのような作品。本来、名作とはそういうものだろう。

『はだしのゲン』(全10巻、汐文社)拡大『はだしのゲン』(全10巻、汐文社)

 ひとつ、大きく勘違いしていたことに気づいた。何となくこの漫画は広島に原爆が落ちるまで、つまり戦前戦中のことと、とりわけ原爆投下直後の惨状が、少なくとも全体の半分以上を使って描かれているのだとばかり思い込んでいたのだが、実際は原爆が落とされるまでが全体の10分の1のボリュームであり、敗戦を告げる玉音放送の場面でさえ全体の4分の1を過ぎたあたりなのだ。つまりこの大長編漫画の4分の3を占めているのは、戦後復興期のことなのである。

 もちろん全編を通じて描かれるのは、原爆被害がいかに後々まで悲惨な影響を及ぼすのかというテーマであり、反戦思想を貫いたゲンの父親を「非国民」と呼び捨てて迫害し続けたにもかかわらず、戦後手のひらを返したように「反戦政治家」のふりをして県会議員となる鮫島伝次郎という人物を要所要所で登場させているところなど、著者が描こうとしているのが「戦争と日本人」であることは明らかなのだが、改めて全体を見渡した時、この物語の骨格をひとことで表すとするならば、中岡元という類まれな向日性を持った少年が、数々の困難を乗り越えて成長していく典型的な「ビルドゥングスロマン」なのだ。

展示されている絵本「はだしのゲン」の原画=広島平和記念資料館提供拡大絵本『はだしのゲン』の原画=広島平和記念資料館提供

 大掴みにそう捉えて読み直してみると、根幹にある反戦・平和への願い、アメリカに対する反発や天皇制への疑義、多種多様な差別や圧倒的な貧困から発してはいるが、それだけには収まりきれない多彩なサイドストーリーに溢れている。

 特に少年たちが寄り添って自分たちの力で家を建て、擬似家族を営む中で、仮想の「お父ちゃん」と決めた小説家、放射能を浴びたせいで無気力になり自暴自棄に陥った老人が、少年たちに救われて再び筆を執り、原爆症で朽ちてゆく体の最後の力を振り絞って広島の悲惨を書き遺そうとするくだり。その原稿をゲンたちがなんとか自らの手で出版しようと奮闘して、結局刊行の決め手となった紙を手配してくれたのが、かつて同じ町内でひどい差別を受けながら、商人として成功し大金持ちになった在日朝鮮人であったこと。そして最後の最後でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲に引っかかり差し止めになってしまうところなど、サイドストーリーではありながら妙に心に残る。

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筆者

大槻慎二

大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者、田畑書店社主

1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです