2020年06月17日
5月25日にアメリカで起きた、「白人」警官によるジョージ・フロイド氏殺害は、アメリカにおける、時代錯誤とさえ言える、根強い「人種」差別の実態を、まざまざと見せつけた。
1960年代の公民権運動期に、白人警官による「黒人」に対する暴力と権力の乱用が問題にされたが、今回の事態は、それと本質的に違わない。いや、警察当局が催涙弾・ゴム弾を使ってデモ隊を排除し、またトランプ大統領自身が米連邦軍の出動にさえ言及した点では、この半世紀の全般的な変化をふまえれば、事態は60年代より悪化したと言えるかもしれない。
類似した暴行事件は、公民権運動から四半世紀が経過した90年代にも起きていた。公民権運動を通じてアメリカ社会に本質的とも言える変化のきざしが生まれたというのに、1991年、黒人男性ロドニー・キング氏に対する白人警官による殴るけるの暴行が、ホームビデオで撮影されて白日の下にさらされ、それは1992年の「ロサンゼルス大暴動」の引き金となった。この事件からさえ、そろそろ30年近い年月が経過している。
にもかかわらず、今回、いまだに頑強に残るアメリカ社会の暗部を前に、暗たんたる気持ちになった人も多かったに違いない。
けれどもこの事態に対し、米国内はもとより世界各地で、空前と言えるほどの差別反対運動が巻き起こったという事実に、私は大きな希望をもつ。それは欧州、北米、オセアニア、アフリカ、アラブ圏、東アジア、そして日本にも及んでいる。
日本では、人種差別(黒人差別)というより、各種差別に対する反対運動の形で人の波が作られつつあるように見える。なるほど「人種差別」を、かつての「植民地主義的な権力関係の維持……という不公正の制度化」として広くとらえれば、アイヌや在日朝鮮人に対する差別も「人種差別」racismと言える(萩原弘子『ブラック――人種と視線をめぐる闘争』毎日新聞社、33頁)。実際、国連「人種差別撤廃条約」において「人種差別」は、この広義の意味で用いられている(第1条)。
だがここでは話題を黒人差別に限定する。黒人差別は、日本(人)にとってもそれ自体として問われるべき問題である。
以下、日本における狭義の人種差別について論じるが、そもそも私は、人種、すなわち肌の色等の身体的特徴によって区分された集団(ここではそう定義する)は存在せず、それは、人々を区別しようとする意識・無意識にもとづいて社会的・歴史的につくり出され、維持されていると考える。その意味で、「人種」「黒人」「白人」等をすべて括弧に入れて記したいが、繁雑になるので避ける。
またアメリカにおいては近年、African American「アフリカ系アメリカ人」という言葉が使われる機会が多いようだが、他方、Blackも一般的に使われる(ジェームス・M・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動――名もなき人々の戦いの記録』集英社新書、16頁)。今回アメリカのデモで「黒人の命は(も)重要だ」Black Lives Matterというスローガンが掲げられたが、これもその延長上のことである。
一方、日本においては、もっぱらBlackに対応する「黒人」が使われる。これはAfrican Americanという言葉を用いる人の意をくんだ用語とは言えないが、対象をアメリカ人だけに限定しない点で、ひとまずそれ自体積極的な意味を見出しうる。だがそれは、「黒」にこだわる点で人種差別の尾をひいている。
さて、問題は日本における人種差別である。
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