黒人差別としての人種差別
日本では、人種差別(黒人差別)というより、各種差別に対する反対運動の形で人の波が作られつつあるように見える。なるほど「人種差別」を、かつての「植民地主義的な権力関係の維持……という不公正の制度化」として広くとらえれば、アイヌや在日朝鮮人に対する差別も「人種差別」racismと言える(萩原弘子『ブラック――人種と視線をめぐる闘争』毎日新聞社、33頁)。実際、国連「人種差別撤廃条約」において「人種差別」は、この広義の意味で用いられている(第1条)。
だがここでは話題を黒人差別に限定する。黒人差別は、日本(人)にとってもそれ自体として問われるべき問題である。
「人種」および「黒人」
以下、日本における狭義の人種差別について論じるが、そもそも私は、人種、すなわち肌の色等の身体的特徴によって区分された集団(ここではそう定義する)は存在せず、それは、人々を区別しようとする意識・無意識にもとづいて社会的・歴史的につくり出され、維持されていると考える。その意味で、「人種」「黒人」「白人」等をすべて括弧に入れて記したいが、繁雑になるので避ける。
またアメリカにおいては近年、African American「アフリカ系アメリカ人」という言葉が使われる機会が多いようだが、他方、Blackも一般的に使われる(ジェームス・M・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動――名もなき人々の戦いの記録』集英社新書、16頁)。今回アメリカのデモで「黒人の命は(も)重要だ」Black Lives Matterというスローガンが掲げられたが、これもその延長上のことである。

「BLACK LIVES MATTER」のスローガンは世界中に広がった=2020年6月14日、ドイツ・ベルリン
一方、日本においては、もっぱらBlackに対応する「黒人」が使われる。これはAfrican Americanという言葉を用いる人の意をくんだ用語とは言えないが、対象をアメリカ人だけに限定しない点で、ひとまずそれ自体積極的な意味を見出しうる。だがそれは、「黒」にこだわる点で人種差別の尾をひいている。