『熱海殺人事件』『蒲田行進曲』などの作品で、演劇に革命を起こした劇作家・演出家、つかこうへい(1948~2010)。直木賞作家でもあったつかは、1970~80年代の文化シーンを牽引する大スターだった。いま圧倒的な人気を誇る「劇団☆新感線」が「つかこうへいコピー劇団」として出発したことが物語るように、後続世代に与えた影響も絶大だ。62歳で世を去って、今年で10年になる。つかの創作に伴走し、2015年に出版した評伝『つかこうへい正伝 1968ー1982』で大きな反響をよんだ長谷川康夫さんが、いま改めて考える。「つかこうへい」と、その時代とは――。
特別な10年の〝記憶〟を記録

つかこうへい。1948年、在日韓国人2世として福岡県で生まれた。慶応大学在学中から演劇を始め、早稲田大学の学生劇団「暫(しばらく)」で活躍。74年に『熱海殺人事件』で岸田國士戯曲賞。82年に直木賞を受賞した『蒲田行進曲』は同年映画化され、大ヒットした。
40年ほど昔、「劇団つかこうへい事務所」というものが存在した。対外的に「劇団」を名乗るようになるのは少し経ってからだが、つかこうへいが自ら「つかこうへい事務所プロデュース」と称して、中心メンバーである平田満ら子飼いの俳優たちと、早稲田の学生劇団の中で公演を打ち始めた1972年秋から、解散となった82年いっぱいまで、その活動期間はちょうど10年になる。
そしてそれは、「つか以前」「つか以後」なる言葉を生んだように、まさしく日本の演劇史に残る特別な10年間だった。
……と、どこかで何度か目にしたような文章を気負い込んで書き始めてはみたものの、どうもしっくりしない感じがしてならない……。
つかこうへいが亡くなったのは、2010年の7月10日である。
それを現実として受け止めた頃、僕も一員だったかつての「劇団つかこうへい事務所」の仲間たちが、つかと過ごした貴重かつ波乱万丈な時間を改めて振り返ったのは当然だろう。
そんな中、あの時代の〝記憶〟が、整理された〝記録〟として何ひとつ残っていないことに、皆、気づき始める。そして何か形にせねばと、僕にお鉢が回って来たのが1年後。「つか事務所」活動以前の、つかの慶応時代も含めて、悪戦苦闘しながら4年がかりでなんとか書き上げ、『つかこうへい正伝1968-1982』(新潮社)として世に出たのは、15年の秋だった。