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柄谷行人と見田宗介の思想には、コロナ禍の混乱から抜け出すヒントがある

閉じざるを得ない今こそ、外部に遍く劈(ひら)く思想のフレクシビリティが不可欠だ

今野哲男 編集者・ライター

戦後思想の二つの頂点

 中島岳志と大澤真幸が「編集協力」に名を連ねる、NHK出版の「戦後思想のエッセンス」シリーズが刊行されたのは2019年の11月25日のこと。その大澤真幸がインタビュアーと編者を務め、「まえがき」で「創刊第0号」であり「特別号」と位置づけるのが、『戦後思想の到達点――柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』だ。

『戦後思想の到達点――柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』大澤真幸編『戦後思想の到達点――柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』(NHK出版)
 ちなみにシリーズ全体については、「日本の戦後という歴史的なフェーズをコンテキストとして考え、活動してきた思想家を、一冊で一人ずつとりあげ、後続の世代の一人の書き手によって論ずる」と説明している。

 今のところ、本書、並びに本書と同時に刊行されたシリーズの二つの巻(『吉本隆明――思想家にとって戦争とは何か』安藤礼二著『石原慎太郎――作家はなぜ政治家になったか』中島岳志著、さらに続巻が告示されている『丸山真男』(白井聡著)の計4巻を除き、企画の全貌と詳細が明らかではなく、通巻番号もないのだが、そのことがかえって、今後の続巻のラインナップや内容に、フレクシブルで現在進行形のスリリングな期待を抱かせるところがある。

二人を結びつける「外部」への開放性

 ことさらにそんなことを言う理由は二つある。一つ目は、二人を類まれな先達と認じる大澤真幸との対話で当人たちが見せる、受け答えの率直で外連味のない面白さであり、二つ目は、その中身を前提に執筆された大澤によるそれぞれのインタビューの「イントロダクション」と、インタビュー後に置かれた終章「交響するD」に込められた、テンションの高さだ。もちろん、どちらにも、外連味のなさやテンションを支えて余りある、数学的と言っていいほどの論理的な裏付けが施されているのだが。

大澤真幸大澤真幸

 その面白さとテンションの魅力をそれぞれ一言でまとめると、前者からは「二人の論理には、‘内部’から‘外部'へ至るアクロバティックな開放性があること」が、後者からは、大澤が「二人の論理には接合可能な共通点があると確信していること」が伝わってくるということになる――ちなみに「交響するD」の‘D'とは柄谷が『世界史の構造』(岩波書店、2010年/岩波現代文庫、2015年)で述べた「交換様式D」から、‘交響する'とは見田の『社会学入門――人間と社会の未来』(岩波新書、2006年)で述べた「交響圏とルール圏」から来ている。

 「交換様式D」と「交響圏とルール圏」が具体的にどういうことなのかについては、煩雑になるので、ここでは省略するが、それぞれの「イントロダクション」(「交換様式論とは何か」/柄谷の章、「「価値の四象限」と「気流の鳴る音」」/見田の章)と、「インタビュー本体」(「『世界史の構造』への軌跡、そして「日本論」へ」/柄谷の章、「近代の矛盾と人間の未来」/見田の章)の中で、大澤が読者向けに居住まいを正してわかりやすく語っているから、できれば参照してほしい。

 で、ここで付け加えたいのは、戦後を縦断してなされてきた二人の到達点が、それぞれの入射角によって違った経路を辿りながら、大澤の言葉を借りれば、二人は「戦後というコンテクストからの自由度においてもずば抜けて」おり、「戦後日本でしか意味がないようなことを語ったり、書いたりしてきたわけで」はなく、「戦後の日本人に向けてだけ理想を送り出してきた」ものでもないということだ。

 つまり、「西洋をはじめとする海外の思想から一方的に影響を受けた産物ではなく、それらと創造的に、そして対等に相互作用する思想」であること。言葉を換えてもう一度強調すれば、二人は所与の条件の下で、一貫して思想的な「外部」と「境界」の視点を失うことがなかったということだ。

 では、それが、今ことさらに大事に思われるのは何故なのか。「外部」と「境界」が大事なことなど、概念的にはステロタイプともとられかねない当然のことであるはずなのに。

コロナという要因を前に、「近代」はどう生きようとするのか

 誤解を恐れずに言ってしまえば、それは、端的に新型コロナウイルスが現れたからである。

 世界は今、命を落とすことのないように、多くの箇所(国)がローカルに閉じなければならない事態に覆われている。しかし、経済的には、グローバルで国境のない新自由主義という既成の現実を否応なく生きざるを得ない。この存在の矛盾に対処するにはどうするか。方策として、今あるのは技術的にどういう戦略を取るかという、リスク回避を主調にした数量的な議論ばかりである。

 もちろん、それは必要だ。しかし、その戦略が固定化する前にわれわれに必要なのは、時に閉じざるを得ない社会の中にあって、いかに、今まで以上に「外部」の変化を見通し、われわれのローカルな「内部」と調整していくかという視点である。今回の政府の種々の施策に見られたように、われわれには未だにその視点が欠けている。このことに気づかせ、新しい道へと続く有力な思考の回路を、二人の思想は内包していると思う。

 それは、前述した「『世界史の構造』への軌跡、そして「日本論」へ」というタイトルを持つ柄谷との、そして「近代の矛盾と人間の未来」というタイトルを持つ見田との、二つのインタビューを読めば明らかだ。その際のキーワードは、柄谷なら「交換様式の混合と回帰」、見田の場合は「地球の有限性」といったところだろうか。

柄谷行人柄谷行人

 4月7日、安倍晋三によって発令された、「非常事態宣言(緊急事態宣言)」以来、この2か月ほど続いた自粛生活の中で、意外にいいライフスタイルのヒントを見つけた人が多いのではないかと思う。一方では、罹患者にも、またそうではない人にも、内部から抽出された新たな外部に向かって弾き出され、それ自体が不安定な内部から差別されるといった、前近代的で理不尽な状態に追いやられる人が少なくなかったはずだ。

 経済的な困窮については論を待たない。この相反する複数の事態が並立する混乱から抜け出す思想的、文学的なヒントが、この本には豊富に含まれていると思う。その象徴的な言説を二つだけ挙げておく。

――(以下、大澤発言。柄谷は『畏怖する人間』(1972年)の中で、――筆者注)「『行人』では、「頭の恐ろしさ」と「心臓の恐ろしさ」という言葉が使われていることに注目しています。自意識や他者との葛藤といった倫理的なレベルで漱石を読むならば、「心臓の恐ろしさ」に触れるような契機は出てこない。柄谷さんはこの二つに注目することで、漱石の小説が、倫理的なレベルと存在論的なレべルの二重構造を持っている、と分析する。ふつうは、前者のレベルしかみないのです」

――「ぼく(見田――筆者注)は近代の科学とテクノロジーをすばらしいものだと思うし、自由と民主主義という社会のシステムを絶対に擁護すべきものと考えているから、「反近代主義者」になったことは一度もありません。(……(中略)……しかし、)このように考えると、近代をこえた社会へと変革していくという問題と、個々人の人生には意味があるのかという実存的な問題とが、完全に連動しているということが理解できるようになるわけですね」

既存の思考の布置を変えることにある力

 柄谷が注目したという「心臓の恐ろしさ」への視線にも、見田が社会の変革と個人の実存は連動すると断言することにも、それぞれの思想の営為(論理)を通じて生きてきた、禁欲的で厳しいながらも、リリカルと呼びたくなるような近代的な「理性」を超えた、「からだ」という「自然」が持つ飛躍の力があるのを感じる。この得難い呼応の力が、コロナ後に来る世界には必要なのではないか。

見田宗介見田宗介

 わたしは幸運にも、1970代後半に演出家・竹内敏晴の「からだとことばの教室」といった所謂「竹内レッスン」の揺籃期に参加していたころの見田と、80年代にわたしも所属していた月刊誌『翻訳の世界』に度々寄稿していたころの柄谷を見知っている。その際は、タイプが違って見えたこの二人を、テキストだけではなく、コロキュアルにも繋げて見せた大澤に、これまた近代の既成概念を超える稀な飛躍の力があると感じる。コロナ禍を「近代」を抜ける「きっかけ」にするには、たぶんこの膂力(りょりょく)が必要なのだ。

 最初に言ったように、この企画は現在進行形であり、その全貌は未だ見えない。しかし、(だからこそ)吉本隆明や鶴見俊輔、そして加藤典洋といった人たちの言説の導きによって、曲がりなりにも「戦後」を考えてきたわれわれ後続世代の読者層に、こういう人たち、そして考えてもいなかった人に、このシリーズが未知の形を与えてくれることを期待したい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。