2020年06月25日
『アサヒカメラ』の休刊が発表された6月1日は、皮肉なことにちょうど「写真の日」だった。とはいえ休刊の噂は、すでにその10日ほど前からSNSで流れていたから、意外とショックは少なかった。以前から不振だったカメラメーカーの業績がコロナ禍でさらに悪化していたから、広告出稿の激減は容易に予想がついた。
改めて振り返ると『アサヒカメラ』の誌面は、常に網羅的だった。つまり写真作家が作品を発表できる舞台であり、信頼すべきバイヤーズガイドであり、有望なアマチュアが競い合うコンテストの場でもあったのだ。また同誌が1975年に創設した、優れた新進写真家を選出する木村伊兵衛写真賞は「写真界の芥川賞」とも形容されている。
このようにシリアスな写真表現からホビーとしてのカメラ趣味までが同居した、同誌のような総合写真雑誌は諸外国に例がない。筆者は1990年代に『アサヒカメラ』の編集長を務めた人物から、同誌の路線とは「中華丼」だと聞いたことがある。様々な食材を一皿で楽しめることに、その存在意義があるとのことだった。こうした路線は曖昧だとの批判もあるが、様々な写真愛好者の交流を促し、写真文化を豊かに耕してきた。このことは同誌のバックナンバーを辿るとよく分かる。それは日本の写真史についての第一級の史料となっている。
筆者は、創刊90年を迎えた2016年から翌年にかけ「アサヒカメラの90年」を同誌に連載した。そのさい、同誌の展開が、日本の視覚文化全体にも影響を及ぼしているという事実を改めて確認した。まず、創刊自体がひとつの文化的事件だったのだ。
一方、当時の朝日には、各支局と地元のアマチュア写真家の連携を強め、紙面のヴィジュアル化を進めようという狙いがあった。この方針はたいていの新聞社に共通する戦略で、戦前戦後を通じてアマチュア写真家の組織化が試みられてきた。ことに戦後は『サンケイカメラ』(産経新聞社)や『カメラ毎日』(毎日新聞社)など、新聞社系列の写真雑誌が林立する時代もあったのである。
その先駆者として『アサヒカメラ』は、アマチュア写真家の質を積極的に変えていった。当時のアマチュアは、絵画的な表現を追求する“芸術写真家”だったが、様々な企画を通じ写真の社会的活用についての意義を啓発したのだ。
同誌の主導で開催された1931年の「独逸国際移動写真展」は、その最たるものだ。社会的活用からデザインと芸術に至るまで、欧州の写真動向を実作で展示し、日本のヴィジュアル・コミュニケーションが近代化するうえで重要な役割を果たしている。
だが日中戦争が始まると急速に方針が変わり、報道写真を推奨する立場へと急速に傾斜したのだ。報道が国家宣伝のなかに組み込まれた当時、社会化してきたアマチュア写真家をそこに組み込むことが同誌の役割となったのだった。
『アサヒカメラ』は日米開戦の翌1942年4月号でいちど休刊し、1949年10月号で復刊している。敗戦直後からカメラメーカーが急増し、写真趣味も再び活性化していたから、同誌は待望されていた。この間、有力な写真家や元編集長らが朝日から同誌の名義を買い取り、その手で復刊させようという計画もあったと聞く。
復刊のさいに掲げられたのが、
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