【後編】公園で独り芝居。何を学び、思い出したか
2020年06月28日
演出家・俳優の串田和美さんが考える、「コロナ」のある世界、後編です。前編はこちら。
客席には誰もいないが相撲取りたちはいつもと同じように四股を踏み、行司はいつものように軍配を返した。相撲取りは全力で戦っていた。しかしそれは相撲ではなかった。
相撲は相撲取りだけでするものではなく、そこにいる観客達の声援や応援する念のようなものを相撲取りが吸収し、吐き出す力で勝負をし、そのことを観客は感覚的に喜んだり残念がったりし、その大勢の感情のうねりこそ相撲なのだなと、改めて感じた。それはきっと他のスポーツにも言えることだろうし、もちろん演劇やライヴコンサートこそ、その最たるものだ。
イギリスのナショナルシアターの舞台映像を観たが、それがどんなに優れた作品であったとしても、自分自身はそこに居合わせていないわけで、私にとってそれは記録映像であり、データに過ぎないと感じた。だからつまらないなどと言うつもりではないし、勿論感動するものもある。しかしそれは演劇の本質そのものではない。自分一人ではなく、多くの他者とそこに居合わせるからこそ“芝居”なのだ。
日本でも多くの演劇の仲間達が、この状況に苛立ち、悲しみ、無観客の芝居の映像や、過去の舞台記録をネット配信した。私自身の過去の作品のいくつかも配信されたし、やはり中止せざるを得なくなり、急遽ネットによる発信に切り替えたヨーロッパの国際演劇フェスティバルに、映像提供もした。
私はそのことに複雑な違和感を感じると同時に、こうまでしても何かを表示しなければならない表現者達の想いや願いをヒシヒシ感じ、これはたとえ本質的な演劇行為ではないとしても祈りに似た演劇セレモニーなのだろうと思い、そう思うと涙があふれた。
今こそ芸術文化の力が必要な時だと、多くの人たちが言い出している。勿論そう思う。
しかし何故“今こそ”なのだろう?
芸術文化というものはいつだって必要だったが、今こそそのことをアピールする時というのだろうか?
うん、その通りかもしれない。
戦後全てが壊滅状態になった社会の中で、大勢の先人達の情熱や努力のおかげで、様々な芸術文化、とりわけある種の演劇やライヴアートがやっと社会的地位を獲得しだしてきた。
それでも全体としては、まだまだ安心して運営しているというには程遠い状態であったところに、今回のコロナパンデミックのようなことが起こり、先行きのわからない長期間、人々が密集して寄り添うような興行は自粛しろという御触れが出た(自粛という表現に強い違和感を感じるが話がそれるのでここでは書くのを自粛する)。
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