2020年06月26日
1970年代は誰もが旅に出た。年寄りも若者も、家族連れも独身者も、都会のサラリーマンも農協の組合員も、ありとあらゆる日本人が「旅」に出かけた。堰(せき)を切ったように人々は旅と観光に熱狂した。本格的なマスツーリズムの時代が幕を開けたのである。
「「日本」の戦後史 【第1章 未来幻想の夏】」でも触れたように、大きなきっかけになったのは大阪万博である。全国から延べ6400万余人が千里丘陵の会場へ押しかけ、炎天下に長蛇の列をつくった。この民族大移動のような「旅」の大きな特徴は、多くの個人/家族旅行者が含まれていたことである。
1960年代に全盛期を迎えた団体旅行は旅行市場を急激に拡大したが、そろそろ飽きられていた。同じ集団に属する数十人から数百人の人間が、同じ目的地に向けて、同じ交通機関に乗り込み、同じプログラムに従って移動し食べて寝るというお仕着せ旅行への違和感が生まれてきたのである。個人や家族がそれぞれの関心や意志によって、別々の旅程を組むのはごく自然なことだという感覚が生まれていた。
大阪万博はこの変化を後押しした。また万博にかかわった事業者は、風向きの変化を肌身に感じて新たな市場開発のチャンスを見出した。万博閉会直後の1970年10月、当時の日本国有鉄道(国鉄)は「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンをスタートした。背景には経営不振にあえぐ同社が、万博後の乗客数の減少に強い危機感を持ったことがある。
…次々としゃべる彼女たちの話を、もし目を閉じて聞けば、彼女たちはまるで映画のヒロインに見えたかもしれない。(中略)それほど彼女たちは、旅に、「自分」を描いているのだった。そして、その「自分」は、どうやら他の人には窺い知れぬ自分だけの「自分」、もう一人の「自分」のようであった。ほかの誰かが、同じ襟裳岬や小諸や倉敷を歩いても、決して同じ「自分」にはなれないという意味と、学校や社会や、あるいは家にいるときの「ふだんの自分」とは全く違う「旅の自分」がそこでは成立しているということであった。旅はそういう「自分」を成立させるための、なくてはならない大道具、ないしは舞台ともいうべきであった。(藤岡『華麗なる出発――ディスカバー・ジャパン』、1972)
だが、藤岡たちもそこまでは読めていなかったのだろう。「マイセルフ」とは日本人自身であるというチーム内の(不思議な)議論の結果、キャンペーンネームは「ディスカバー・ジャパン」に落ち着いた。電通は国鉄へのプレゼンテーションで、さかんに“目的地販売ではなく、自ら創り日本や自分自身を再発見する旅でなければならない”と主張した。国鉄側にはこうした大仰な意見に戸惑う声もあったものの、強い異論や反対は出なかったようだ。
電通の思惑は、扱い額の小さな個別観光地や旅行企画の媒体は他に任せて、大型キャンペーンの“本丸”を取ることだったのだろう。まだ目新しかったマス広告の理論に則って、潜在顧客の欲望を喚起するメディアミックスを仕掛けようと考えたのは間違いない。その先陣を切ったのが、観光地を写さず、場所も記さず、心象をつづったようなコピーを添えた大型のポスターだった。
たとえば寺の広大な本堂に女性が一人正座した姿を俯瞰で撮り、脇には「目を閉じて…何を見よう。」のコピー。また、
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