メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

 1970年代は誰もが旅に出た。年寄りも若者も、家族連れも独身者も、都会のサラリーマンも農協の組合員も、ありとあらゆる日本人が「旅」に出かけた。堰(せき)を切ったように人々は旅と観光に熱狂した。本格的なマスツーリズムの時代が幕を開けたのである。

 「「日本」の戦後史 【第1章 未来幻想の夏】」でも触れたように、大きなきっかけになったのは大阪万博である。全国から延べ6400万余人が千里丘陵の会場へ押しかけ、炎天下に長蛇の列をつくった。この民族大移動のような「旅」の大きな特徴は、多くの個人/家族旅行者が含まれていたことである。

 1960年代に全盛期を迎えた団体旅行は旅行市場を急激に拡大したが、そろそろ飽きられていた。同じ集団に属する数十人から数百人の人間が、同じ目的地に向けて、同じ交通機関に乗り込み、同じプログラムに従って移動し食べて寝るというお仕着せ旅行への違和感が生まれてきたのである。個人や家族がそれぞれの関心や意志によって、別々の旅程を組むのはごく自然なことだという感覚が生まれていた。

 大阪万博はこの変化を後押しした。また万博にかかわった事業者は、風向きの変化を肌身に感じて新たな市場開発のチャンスを見出した。万博閉会直後の1970年10月、当時の日本国有鉄道(国鉄)は「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンをスタートした。背景には経営不振にあえぐ同社が、万博後の乗客数の減少に強い危機感を持ったことがある。

藤岡和賀夫=1974年拡大藤岡和賀夫=1974年
 キャンペーンを主導したのは、万博で大いに実績を上げた電通。チームリーダーは、この年、富士ゼロックスの企業広告「モーレツからビューティフルへ」で話題を集めた藤岡和賀夫(わかお)だった。藤岡は若い女性たちを個人旅行消費の本命と見て、グループインタビューで「印象に残っている旅を話してくれませんか」と問いかけた。すると女性たちは次々に旅の中のセルフイメージを語り始めた。

…次々としゃべる彼女たちの話を、もし目を閉じて聞けば、彼女たちはまるで映画のヒロインに見えたかもしれない。(中略)それほど彼女たちは、旅に、「自分」を描いているのだった。そして、その「自分」は、どうやら他の人には窺い知れぬ自分だけの「自分」、もう一人の「自分」のようであった。ほかの誰かが、同じ襟裳岬や小諸や倉敷を歩いても、決して同じ「自分」にはなれないという意味と、学校や社会や、あるいは家にいるときの「ふだんの自分」とは全く違う「旅の自分」がそこでは成立しているということであった。旅はそういう「自分」を成立させるための、なくてはならない大道具、ないしは舞台ともいうべきであった。(藤岡『華麗なる出発――ディスカバー・ジャパン』、1972)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

菊地史彦の記事

もっと見る