メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

つかこうへい「口立て芝居」の本当の意味

作家と役者は何をしていたのか(上)

長谷川康夫 演出家・脚本家

 演劇に革命を起こした劇作家・演出家、つかこうへい。没後10年を機に、かつて「劇団つかこうへい事務所」の一員で、評伝『つかこうへい正伝 1968―1982』を著した筆者が、つかとその演劇を改めて振り返る。今回は、つかと俳優との関係の核心をつづる。

 「つかこうへい話Returns」プロローグはこちら 

〝教祖〟でも〝殿〟でもなかった

長谷川康夫著『つかこうへい正伝 1968―1982』(新潮文庫)
 「あんなイヌネコのように扱われて、よく耐えられましたね。この人とはやってられない、逃げ出そう、とか思わなかったんですか」

 拙著『つかこうへい正伝 1968―1982』が世に出てすぐ、風間杜夫はそれを読んだ知人から、真っ先にそう言われたという。いや、風間だけではない。かつての「劇団つかこうへい事務所」の俳優たちはそれぞれ、同じような感想を耳にしている。

 確かに本の中で僕は、つかこうへいの、傍若無人で、理不尽で、平然と残酷な振る舞いをみせる「とんでもない男」振りをさんざん描写した。そして様々な仕打ちに反発することなく、甘んじて受け入れてみせる、我々劇団員たちの姿も同時に綴った。その事実に関して一切嘘はない。

 しかし、そんな常人の理解を越えたつかこうへいと我々の関係が、実際はどんなものだったかは、うまく伝えることができなかったようだ。

 「まるでオ○ム真理教じゃないですか」
 「○けし軍団なんかと、似てますよね」

 これもよく聞いた言葉だ。そんなとき、僕はただウーンと唸り、腕組みしてみせるしかない。

 まるで違うのだ。僕らにとっての『つかこうへい』は、崇め奉る〝教祖〟でもなければ、家来のように従う〝殿〟でもない。

 もちろん芝居作りに関しては、絶対的存在であったのは間違いないし、日常でも劇団員たちに向け、天からの声のような傲慢さで、無茶な要求を突きつけた。そして僕らも、いわば無条件に〝服従〟を装ってみせてはいた。

 しかしそれを、ご主人様に仕える奴隷のように思われると、苦笑してしまうのだ。

 僕らは芝居というものを通したつかとの関係性を、ある意味、客観的に楽しみ、したたかに計算しているようなところがあった。稽古場で罵倒するつかと、罵倒される自分を、皆、どこか冷静に俯瞰していた。

つかが発する「正解」で作る芝居

つかこうへい事務所『熱海殺人事件』。(左から)平田満、加藤健一、三浦洋一=1978年、東京・新宿の紀伊国屋ホール

 我々の時代、つかの芝居が台本のない「口立て」という手法で作られたことは、演劇の世界ではよく知られた話だ。それが如何(いか)なるものだったか、僕は『つか正伝』の中で繰り返し描いた。だが、そんな芝居作りでは、つかと僕らの特別な関係性こそが大きな意味を持つという、一番重要なそこには触れることがなかった。今になって、しまったと思っている。

 つかの「口立て」なるものを、ここの読者のために、今一度説明しておこう。

 はなから〝台本がない〟ということで、よく誤解されるのは、稽古場で役者に状況だけ与えて、即興で演じさせ、演出家がそれに助言しながら繰り返す中で台詞を固め、出来上がった各々の場面を構成して、一本の作品に仕立て上げるというものだ。実際それは珍しいことではなく、初期の『東京乾電池』などでは、そんな形で芝居が作られていた。

 しかし「口立て」はそれとは対極にある手法なのだ。

・・・ログインして読む
(残り:約2416文字/本文:約3791文字)