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女たちは密やかに旅を始め、覚醒した――倉橋由美子『暗い旅』をめぐって

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

『暗い旅』から始まった

 前稿で触れたように「ディスカバー・ジャパン」は、まず若年層の女性を的確につかんだ。ただ彼女たちが何かを探索し、発見したいと思い立ったのは、このときが初めてだったわけでもない。

 少し時間を遡って、ある探しもののために京都へ向かう女性の一人旅を、最新の風俗とヌーヴォー・ロマンの匂いを織り込んで書かれた小説に触れておきたい。

 倉橋由美子の1961年の長編、『暗い旅』である。フランス現代小説の物真似と腐す人もいるが、私は1960年代の若者風俗を知る上で重要な作品だと考えている。「旅」を若い女性の「自分探し」に見立てた最初期の事例であり、先端的な文化事象や都市の風景を記号論的に扱ったポップ文学の先駆けでもあるからだ。

 主人公は24歳の女子学生である「あなた」。この二人称の主人公は婚約中の「かれ」の失踪に戸惑いながら、そのこと自体を受け入れるために「旅」に出る。

 小説は次のような一節で始まる。

光明寺行きのバスがでるまで、十五分以上も待たなければならない、急いでいるわけではないが、あなたはいらいらしながらバス乗り場をはなれて駅前広場を横切る。右側に西武百貨店、左側にあなたとかれがよくバヴァロアやエクレアを食べたことのある風月堂、そして観光都市らしく土産物を並べた店……あなたにとってはまったく見慣れた鎌倉の駅前だ、しかしいま鎌倉は二月の埃っぽい寒気のなかであなたによそよそしい顔を見せている、まるで目的のない旅行者、いかがわしい、空虚な眼をした異邦人でも迎えるように。

 「あなた」と「かれ」は17歳のときに鎌倉の海で出会い、同じ高校に通った。「かれ」は東京大学を思わせる「Q大」に入学し、「あなた」は1年遅れて同じ大学へ入った。共にフランス文学とモダンジャズを好む彼らは、飛び切りの(砂糖菓子のような)カップルになった。作品には、吉祥寺や渋谷界隈のジャズ喫茶やレストランが実名で鏤(まと)められ、ファッションから料理の献立に至るまで、若い女流作家の趣味が生かされている。

 しかし、フランス語の単語を織り交ぜて会話する二人は、相互に性的関係を縛らないという「危険な関係」を試みた結果、密かな倦怠を呼び込んでしまった。「かれ」の失踪はこのことに原因があると「あなた」は考えている。喪失感に急かされるようにそそくさと京都へ旅立つ「あなた」は、しかしもはや「かれ」を捜索しようとはしない。旅からすでに目的は失われている。

 東海道線のつばめ号に乗り込んだ「あなた」は、「かれ」と共にあった時間を取り戻すかのように感傷のページを繰っていく。新幹線以前の特急列車の時空間は、今より多少猥雑でしかもほんの少し特権的である。

特急「つばめ」=1960年特急「つばめ」=1960年

どことなく、クリスタル

 この作品が書かれたのは60年安保闘争の翌年である。倉橋は戦後史の分水嶺となったこの年に、学生作家としてデビューした。左翼的情熱に生涯縁のなかった(らしい)倉橋のデビュー作が「パルタイ」と命名されていたことはどこか皮肉である。

倉橋由美子の「パルタイ」が収録された本=1960年倉橋由美子のデビュー作「パルタイ」=1960年

 パルタイすなわち「党」への加入を希望する女性の主人公は、経歴書の提出を求められる。過去の事実(貧困や差別)の累積を示し、パルタイにふさわしい人間であることを証明する必要があるからだ。

 ところが、革命という大目的の権化である「党」が常に必然性(客観的因果)を求めるのに対し、主人公は逆に投企性(主体的選択)の中に革命の可能性を見ようとする。「目的」に隷属することの不自由さを主人公は「オント(honte)」すなわち「恥」と感じたのである。

 「パルタイ」は当時、ふた通りの解釈へ開かれていた。ひとつは日本共産党の閉鎖的・官僚的組織風土への批判であり、

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